初期の村の姿は、その後大きく変化してくる。変化をもたらしたきっかけは、多くの場合村方騒動であった。一七世紀から一八世紀はじめの近世前期の村方騒動をみてみよう。
肝煎が過大村で複数置かれたことは先にふれたが、さほど村高が多くない村でも、村内に並びたつほどの有力な百姓がいる場合には二、三人の肝煎が置かれている。一七世紀中の村方騒動には、村運営の主導権をめぐって、有力百姓家がそれぞれ小百姓らを味方に引きこんで争いあうものが多かった。慶長七年検地の埴科郡加賀井(かがい)村(松代町東条)をみると(表22)、縫殿助(ぬいのすけ)と又兵衛とはどちらの家が肝煎になってもおかしくない有力百姓である。加賀井村のことはわからないが、こうした村ではマケ(同族団)がらみの村内紛争がおきがちになる。結果として、組分けして複数の肝煎をおくことで落ち着いた例が多い。水内郡西条村(浅川)では正徳元年(一七一一)、世襲名主勘左衛門の村政に不満をもつ村民が訴えでて村方騒動となり、けっきょく東西両組に分けてそれぞれ名主を置くこととなった(『浅川村郷土誌』)。しかし一般に、村役人の数が増せば、村民が負担するその経費(村入用(むらにゅうよう))も増す。負担増が問題となって、ふたたび一組・肝煎(名主)一人制にもどした村も少なくなかった。
それとは異なり、一七世紀末ごろから一八世紀へとしだいに増加してくる村方騒動は、村の多数を占める小百姓(非村役人層の村民)が、村政、村の運営、あるいは村役人のありようを問題として、是正・改善を求めることから起きるものである。
この背景には、小百姓の自立動向がすすんで小百姓が増大し、その発言力が高まってきたという事実があった。小百姓の自立とは、早い時期には上層有力百姓の家に包みこまれていた血縁・非血縁の従属的な人びとが、自分の田畑と家屋敷を手に入れ、夫婦中心の家族で生計をたて、主家から独立してくることである。小百姓の自立を可能としたのは、一七世紀後半からしだいに商品経済が広がり、さまざまな稼ぎの手だてが生まれてきたことであったといえる(『市誌』④八章「商品流通の発達」参照)。営々と働けばわずかずつでも収益をたくわえることができ、田畑を買得(ばいとく)したり、小さいながら家屋敷を手に入れることも不可能ではなくなってきたのであった。
自立し、あるいは自立を志向しつつある小百姓は、わずかな規模の田畑しかもたないが、まず懸命に新田開発につとめる。更級郡川中島の稲荷山(いなりやま)(更埴市)、塩崎・岡田(篠ノ井)、今井・今里・上氷鉋(かみひがの)・戸部(とべ)(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)八ヵ村は、元和八年(一六二二)上田藩仙石氏領に属した。それから八〇年余たった宝永三年(一七〇六)、仙石氏が但馬出石(たじまいずし)(兵庫県出石郡出石町)へ転封(てんぽう)するにあたってこの間の切り起こし高(新田開発高)を調べたところ、計三六二石余にのぼっていた(『市誌』⑬一一九)。とりたてて新田村が成立したわけではないが、村内の草地・荒れ地・河川敷などをわずかずつ開墾する切添え・切開きなどとよばれる開発田畑の集積であった。
買得や開発で入手できた田畑は多くはないが、それだけに惜しみなく働き、肥料を多く投入し、二毛作や輪作を取り入れるなど、生産性を高める集約農業をおしすすめる。一七世紀後半から村々のあいだの山論がにわかに増してくるが、これは小百姓たちが田畑の主要肥料である刈敷(かりしき)の採取をはじめ入会(いりあい)山野の利用度を高めたことに起因している。松代領の水内郡橋詰・五十平(いかだいら)・坪根(つぼね)・黒沼・古間・瀬脇(せわき)・岩草各村(七二会)と念仏寺村(中条村)の「表八ヶ村」は、「裏山中」の上祖山(かみそやま)・下祖山両村(戸隠村)と深刻な山境論をくりひろげ、貞享(じょうきょう)五年(一六八八)五月、松代藩検使の実地見分の結果、「八箇村の者ども、申し分立たず不届きの至り」とされ敗訴となった。頭取(とうどり)七人が牢舎(ろうしゃ)を命じられ、うち橋詰村の新兵衛・五兵衛は死罪に処された(『七二会村史』)。
外にたいしては山論を高揚させる原動力になるいっぽう、自立小百姓たちは当然にも、村内において身分の向上や村政への参加を望み、また山野・用水をはじめとする用益権の拡大を求めた。
元禄六年(一六九三)四月、橋詰村の小百姓惣代(そうだい)六人は、村の二人の肝煎とおとな百姓らを相手どって松代奉行所へ訴えでた(同前書)。訴状はつぎの五ヵ条をあげる。①寅(とら)年の藩新田検地のさい、小百姓はおのおのの畑に御竿(おさお)を請(う)けたいと肝煎らに願ったが、「小百姓ども一言も申すまじくと堅く申し付けられ」、めいめいの御竿請けはできなかった。②新田の高辻がどうなったのか、小百姓にはまったく知らされていない。③萩野平・峠下り分は、村内集落の地足院村・大久保村・橋詰村・地蔵堂村の入会草山で、ここを小百姓が少々ずつ切り起こしておいたところ、両肝煎・老(おとな)百姓が寄り合い、小百姓には無断で上層百姓らの割地(わりち)にしてしまった。④「惣(そう)じて両肝煎・老百姓衆、小百姓おしかすめ非道(ひどう)なる事ども御座(ござ)候あいだ、(中略)水帳名所次第開発の者に御年貢仰せ付け下さるべく候御事」。⑤右四ヵ村入会草山のうちには卯(う)新田・亥(い)新田もあるが、それらは差しおき、「われらども切り起こしのところばかり割地につかまつり候段、迷惑に存じ奉り候」。
総じて、肝煎・おとな百姓の専断をきびしく批判して、小百姓開発新田を藩が検地し、開発者を新田検地帳に載せて年貢負担者とするよう願いでたものであった。この訴訟の結末は明らかでないが、一般に、このような小百姓の動きが肝煎・おとな百姓の専断的な村支配をしだいに突きくずし、村政、村運営に参加・発言できる村民の範囲を広めてきたのである。