村役人は初期の肝煎(きもいり)から変化する。まず、名称が肝煎から庄屋(しょうや)または名主(なぬし)に変わる。北信濃で村役人の呼称に庄屋を用いたのは、たぶん福島正則(まさのり)領がもっとも早かった。正則は元和(げんな)五年(一六一九)、高井郡と越後四万五〇〇〇石で高井野村(高山村)に配流されるが、同領で元和七年に庄屋が使われている(『信史』23三四六頁)。ついでは上田領である。元和八年に上田に移り川中島一万石も領した仙石忠政領では、元和九年にはまだ肝煎を用いているが、翌年の寛永元年(一六二四)からの年貢定めは村々の庄屋・惣百姓中(そうびゃくしょうちゅう)あてに出される(『信史』24一六八~一七九頁)。幕府領も寛永元年からといえる。同年冬の年貢割付状は、代官青木俊定(としさだ)らのものはまだ肝煎あてだが、設楽能業(しだらよしなり)らは庄屋・百姓中に出している。青木俊定らも寛永四年から名主・百姓中にあらためる(同前)。飯山藩では寛永十六年の松平忠倶入封(ただともにゅうほう)以降庄屋を用いる(『信史』27四四五頁)。知られているように庄屋は西日本、名主は東日本に多い呼びかたで、実質的な違いはない。
肝煎から庄屋・名主への変化は、村役人の実態の変化を反映している。初期の肝煎の場合、肝煎は領主支配の末端機構として村を専制的に支配し、年貢・諸役も村請(むらうけ)制というより肝煎による請負上納という色合いが強かった。これにたいして庄屋・名主は、村民代表の村役人という性格の強化をともなう。年貢割付状に庄屋(名主)・百姓中と併記されること自体、百姓代表としての庄屋(名主)というありかたを示している。
一七世紀前半に肝煎呼称が消えるなかで、異例なことに松代領ではあとあとまで残る。宝暦十四年(明和元年、一七六四)に、村々から「肝煎のままでは他領への聞こえが悪い」と改称を藩に願い出、以後は名主になった。このとき、従来は村民が出しあってきていた名主給も、藩が下付するように改定された(『市誌』⑬一八五)。しかし、松代領でもすでに肝煎時代から村民代表としての性格はしだいに強められてきている。
肝煎から庄屋・名主への変化についで、村役人制度にいまひとつの変化があらわれる。庄屋・名主以外に、組頭(くみがしら)とか年寄(としより)とよばれる第二の村役人がもうけられることである(組頭は関東系、年寄は関西系の呼称)。組頭は、行政実務が増し庄屋・名主の手に余るようになったための補佐役という意味もあるが、むしろ主要な役割は村役人寄り合いに出て村の意思決定に参画し、村の公式文書(もんじょ)に連署して連帯責任を負うところにあった。つまり、庄屋・名主の独断専行を牽制し監視する役割をおびている。上田領ではほぼ慶安元年(一六四八)ごろから庄屋・組頭連署文書がみられ、幕府領でも同じころである。松代領では万治(まんじ)年間(一六五八~六一)ごろ、飯山領では寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)ごろに組頭が加わる文書があらわれる。
組頭は一般に複数制がとられる。村内の組(集落)から一人ずつ送りだす方式が多く、三~四人程度がふつうである。しかし、なかには、松代領広瀬村(芋井)で寛文六年(一六六六)に一一人(『芋井村誌』)、須坂領綿内村(若穂)で元禄十二年(一六九九)に村内一九組から二一人、元文二年(一七三七)には二七人(『長野県上高井誌』歴史編)といったように、多人数を置く村もあった。領主が一律に設定するのではなく、村が村内事情に応じてとりきめていることがわかる。
庄屋・名主と組頭・年寄にたいして、やがて第三の村役人がもうけられると、近世の典型的な村役人制である村方三役ができあがることになる。上田領では、承応(じょうおう)三~四年(一六五四~五五)の村々貫高(かんだか)改め帳に庄屋・組頭のほかに長(おとな(おさ))百姓が連署に加わっているのが早い例で、やがて一般化する。松代領でも第三の村役人は長百姓である。『七二会村史』が村方文書から作成した肝煎・組頭・長百姓の一覧によると、長百姓が登場する文書の初見は、大安寺村・笹平村で寛文三年(一六六三)、岩草村で寛文六年、瀬脇村で延宝六年(一六七八)、坪根村で貞享(じょうきょう)四年(一六八七)などが早い。また、寛文五年に石川村(篠ノ井)が藩へ提出した文書に長百姓が署名している。他地域の村々でも、おおむね寛文年間ごろから設置されはじめたと考えられる。
前にふれたように、もともと長百姓は戦国末のおとな百姓の家筋をひく有力百姓のことで、庄屋や組頭もはじめはこの長百姓層から選任されている。長百姓はこれまでも村の意思決定には加わってきていたが、それが正規に村役人として位置づけられてくるのである。村によっては数人から一〇人ほどの長百姓全員が村役人の長百姓になるが、多くの場合、長百姓層のなかから二~三人が村役人となる。名主・組頭の村政の補佐もするが、むしろその監視役であったとみられる。選任基盤が長百姓層であるから、小百姓層はまだ村政に直接には参加できないという限界があったが、初期の肝煎支配時代にくらべれば、村政機構が整えられるとともに、村そのものが村民の村へと大きく変化をとげてきたといえよう。
同じ第三の村役人でも、幕府領では一八世紀に入ってから享保(きょうほう)十年(一七二五)前後に、ほぼいっせいに百姓代(だい)が設置される。これは、年貢・諸役や村入用の割りふりへの小百姓層の不満から村方騒動が頻発したことへの対処策として、幕府が年貢割付状の公開、村入用夫銭帳(ぶせんちょう)の作成提出などとともに、百姓代の設置を求めたことによる。幕府領のこの百姓代は、明らかに「軽き百姓」「小(こ)百姓」「平(ひら)百姓」を代表し、村政の監視にあたることを主任務とした。
幕府領以外にも似た動きがあった。飯山領で享保ごろに、庄屋・組頭・長百姓と別に「惣百姓代(そうびゃくしょうだい)」といった肩書をもつものが村政に加わりはじめる。須坂領では百姓代が置かれる。松代領では、一八世紀後半にいたって村々に「小前惣代(こまえそうだい)」があらわれはじめる。名前のとおり小前(小百姓)を代表する。公式文書に署名する正規の村役人ではないが、村役人寄り合いなどに参加し小百姓層の意思を代弁した。これらは、領主の指示というより、村自身が小百姓層の求めにより必要に迫られて設置したといえる。村の変化により、上層の本百姓にかぎらず、中下層の本百姓、さらに非本百姓の村民までが村政・村運営に加わる道がしだいに開かれてくるのである。