松代領では、肝煎(名主)・組頭・長百姓の村方三役とは別に、頭立(かしらだち)が置かれたところに特色がある。藩が頭立を制度として創始した時期は明確でない。元文(げんぶん)年間(一七三六~四一)といわれているが、更級郡上山田村(上山田町)では寛保二年(一七四二)、水内郡牧田中(まきだなか)村(信州新町)では宝暦十一年(一七六一)にはじめてもうけられたと伝えている(『上水内郡誌』歴史編)。全領いっせいではなく、川北(かわきた)通り・川中島通りなどが早く、他は順次置かれたらしい。それまで長百姓層(永(えい)長百姓)でなかった村民、つまり小百姓層のなかから上層のものを藩が頭立に任じた(『更級埴科地方誌』③上)。おそらく、古来の長百姓層が一八世紀に展開した貨幣経済のなかで衰微したり潰(つぶ)れ百姓化したりと変転したため、村落支配秩序の立て直しを期して長百姓と同格の地位として新たに頭立をもうけたと考えられる。頭立は村役人ではないが、村方三役の評議に加わり、三役とともに他村との折衝の場に出、藩出役や公儀巡見使の案内をつとめ、村内を手分けしてまとめにあたるなど、村政の決定と村共同体の運営上広範な仕事をうけもっている。
松代藩は宝暦十四年(明和元年)、肝煎を名主にあらためたときに、「村々において人柄長(おとな)しき者内詮議(うちせんぎ)致し、早速名面書付(なづらかきつけ)(名簿)申し出(いだ)すべく候、このたび村々願いのとおり仰せ付けられ候につき、相尋ね置き候」と命じた(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。頭立制の拡充整備をめざして、村々から適任者リストを提出させて任命したのである。寛政十二年(一八〇〇)にまた、つぎのように命じた(災害史料⑦)。「領内頭立には、明和の頭立帳面に、当時村役勤役中だったり幼少だったりしたため書き落とされたものがあったので、去年代官が命じて再度帳面を書き上げさせたところ、村役を多年つとめたものや村方のためになるものを新頭立にしたいと願う村があった。よってこのさい、新頭立をふくめ頭立帳面の仕立て直しをおこなう」。ここで、領内村々頭立名面帳のいわば決定版が作成されたわけである。以後はこれが加除修正される。
この寛政十二年には、別にきびしい領内触書が出されている。①小百姓の村方三役独占は禁止、小百姓は一役にかぎれ。②持高不相当の高借財が多く不埒(ふらち)、以後名主は借金加判元帳を仕立てておき、借金証文への加判は妥当な引き当て(抵当)がある場合のみとせよ。③潰れ・欠落(かけおち)百姓が村民に借財を弁納させながら居宅に住んでいるのは不埒至極(しごく)、以後持地・家屋敷は村へ取りあげ家族は親類分散とせよ、といった内容である。触書が示すように、このころ村々では、有力百姓層にも潰れ・欠落が続発しその借財を負って一村総難渋におちいる村が多いいっぽう、小百姓層が村役人に進出し、三役を独占する村さえ増しているといった状況にあった。新頭立をふくむ頭立制の再編成には、領内村落支配秩序の再建という藩の企図がこめられていたことは疑いない。
これ以前から藩は、村々の頭立任免を重視していた。寛政七年三月、代官五人が村役人などの任免手順を問われて、つぎの四点を上申した(災害史料⑤)。①三役人の毎年の交替願いは代官が申し渡す。②名主を増す願いはお伺いしお指図による。③組頭・長百姓の増減願いは代官が申し渡し、事後に口頭でお届けする。④頭立の病身・死失による相続願いは代官が申し渡す。しかし、新頭立願いはもちろん、頭立増減のことはお伺いする。
右のように、新頭立の任命や頭立の罷免(ひめん)は、名主を増員することとともに、代官の裁量でなく上司の判断にゆだねられる重要事項であった。郡(こおり)奉行から村方願書・代官口上書を添えて家老に伺い書を出し、家老の認可がくだってはじめて頭立の任免を村へ申し渡した。実例を二、三あげてみよう。
寛政八年三月、更級郡下小島田(しもおしまだ)村(更北小島田町)は三役人・頭立三人と村中惣代三人の連名で代官所に願書を出した。新頭立願いには村中合意が必須条件とされ、この場合は村中惣代が連印しているが、村中の総百姓が連印する願書も多かった。願書は、「当村は頭立が少なく御用その他万端差し支え難儀至極のため、村中惣百姓寄り合い評議の結果お願い申しあげる。先年欠落(かけおち)と病死で頭立二人が除名されたが、その跡を源之丞(げんのじょう)・勇蔵につとめさせたい。また、頭立長蔵は病身のうえ、川(千曲川)向こう居住のため急御用をつとめかねるので、長蔵は頭立を辞任し、長蔵の弟で本村に住む宇右衛門を後任としたい」と願っている。代官は八月、認可を願う伺い口上書を書き、村方願書を添えて郡奉行に上げた。「散り郷の村なので小人数の頭立ではつとまらない。三人とも筆算もつかまつり確かなものである。新頭立三人を認めていただけないと御用向きに欠け、郷中不締まりにもなる」などと記している。同月、郡奉行は「詮議した結果余儀ない筋と認め、願いのとおり申し付けたい」と、村方願書・代官口上書を添えて家老に上申した。家老はこれを認可している(災害史料⑥)。
同じ寛政八年の八月、水内郡上松(うえまつ)村は新頭立一人を願いでた。郡奉行の伺い書は、「前々頭立をつとめていた親喜左衛門が安永年中(一七七二~八一)に心得違いがあって頭立を罷免された。そのさい、将来悴(せがれ)喜伝治が成人し、人柄が宜(よろ)しく村中一和して願いでるなら頭立を申し付けようと、先役どもに書付を渡しておいた。このたび村中一同が願いでた。村の他の頭立らが老衰していることでもあり、親の頭立の跡をつとめさせたい」と書いている。二十数年ぶりに復活した頭立であった。享和元年(一八〇一)、更級郡四ッ屋村(川中島町)は「五人の頭立がいるが、うち二人は犀口堰守(さいぐちせぎもり)をつとめており、残り三人では手が回らない」と新頭立五人を願い出、郡奉行も「村柄よりは頭立が少ない」と伺い書を上げた。同年、水内郡北高田村は、「当村は大郷(たいごう)で村内に五組あるが、うち窪(くぼ)組には頭立が一人しかおらず、他組とへだたっている組なので差し支える。幸右衛門はこれまで組頭役などをつとめ実躰(じってい)なるものなので新頭立をお願いしたい」と願いでて認められた(災害史料⑥)。この前後の北高田村の頭立数・小前数は表23のようであった。
頭立は、ほんらい小前百姓層に属していたものが昇格して大前百姓(役前百姓)となるものである。なかには、昇格を期待して心証をよくするため藩に献金を願いでるようなものがあらわれたりもした。一例だけあげよう。文化十年(一八一三)、藩主真田幸専(ゆきたか)と前藩主幸弘(ゆきひろ)の発願(ほつがん)により真田氏の鎮守神白鳥宮(松代町西条)の造営普請がおこなわれたが、その御普請にと高井郡保科村(若穂)の小百姓伴七が金二〇〇両の献金を願いでた。藩はこれを受納し、この褒賞(ほうしょう)について当人の内意を尋ねた結果、頭立に任じ、あわせて持高四〇石分の諸役を免除した。なお、諸役御免のほうは、保科村は御役炭上納村のためもともと諸役の多くが免除されていたので、重ねて伴七の願いをいれ御役炭一〇〇俵御免にかわった(災害史料⑩)。
新頭立の願書は村中一和して推薦することが必須条件であったが、じっさいには昇格をめぐって村方騒動がおこることもあった。また、小前百姓と頭立を中心とした大前百姓とのあいだには、しばしば村方騒動が発生した。
嘉永二年(一八四九)十月、水内郡西和田村(古牧)では小前百姓が頭立に不正ありと松代藩に訴えた(『古牧誌』)。訴えのなかには、小前出身の名主にたいして、頭立がなぐったとか、村寄り合いの席上「こんな飯が食えるか」と飯を投げつけたとかいった問題もふくまれていた。この江戸後期には、村役人の決定を入札(いれふだ)(投票)でおこなう村が広がったため、数にものをいわせて小前百姓の村役人が増す。守勢に立たされた大前がわが、小前出身の村役人にいやがらせをしたという例は他村にもみられる。この西和田村の騒動は、藩から内示されて、同郡近隣の東和田(古牧)、北尾張部(きたおわりべ)・石渡(いしわた)・南堀・北堀(朝陽)の五ヵ村名主惣代としての東和田・石渡両村名主と、福島(ふくじま)新田村(朝陽北屋島)の一人、布野(ふの)村(柳原)の一人が仲裁に入った。九ヵ条をとりきめて和解し、藩にお吟味下げを願いでている。九ヵ条のなかには、小前百姓から「若年に似合わない大酒飲みだ。罷免してもらいたい」と要求された頭立相続人が禁酒を誓ったような条もあり、最後の箇条は「頭立は小前を憐み役儀大切に相勤め、小前は頭立を重んじ、向後(きょうこう)むつまじく致すべきこと」であった。
この例のように、江戸後期になると、多くの村々で小前百姓層の勢力が強まり、頭立層は押され気味となる。松代藩が頭立に核となることを期待した村落支配秩序は大きく揺らいできていた。