幕府は、先にふれたように村方騒動頻発(ひんぱつ)への対処策のひとつとして、村入用夫銭(ぶせん)帳(村入用帳)の作成、提出を義務づけた。村入用(村財政)について村役人の独断・不正を排除し、冗費を節倹させて村民負担を軽減し、また負担の公平を期することなどを目的としたものである。
村入用帳は一七世紀からあって、夫銭帳とよばれることが多かった。夫銭という言いかたは領主から課される夫役(ぶやく)(労働課役)の代銭納という意味合いかと思われる。内容的にも一七世紀の帳は領主御用にかかわる経費が中心であったが、しだいに村自身の出費に中心が移る。信州の幕府領村々が年々提出するようになったのは一八世紀に入ってからであった。私領でも提出させるところが増す。しかし、松代領では制度化されなかった。村入用帳には、一年間の村政・村共同体運営上、村として必要とした金銭および米などの支出を項目別に書き上げ、その村民への割りふりの仕方も記される。
村入用帳には、一年間に村が使ったさまざまな支出が書かれているから、そこから村というものの姿をうかがい知ることができる。ただし、多くの場合、領主役所に提出する帳には支出の過大をとがめられないように手直しをほどこし、じっさいの入用帳(裏帳簿)の出費はこれを上まわる。しかしそれでも、村のおよその姿を見るには有用であろう。
更級郡今井村(川中島町)は村高一一一〇石余の村である。上田領であったが、享保二年(一七一七)から同十五年までのあいだ幕府領になり、坂木(さかき)(坂城町)代官所の支配に属した。享保十三年正月一日から十二月晦日(みそか)にいたる村入用夫銭帳を翌年正月に代官所に提出している(『市誌』⑬一七九)。帳面の末文に「名主・組頭・長百姓・惣(そう)百姓が立ち会い、無益の出費がないように吟味し、村民に高下(こうげ)がないように割りあてた。もし割りあてについて百姓仲間に争いが生じたなら、どのような曲事(くせごと)(処罰)にも仰せつけください」などと書き、名主一人・組頭四人と惣百姓一〇二人が連印している。
今井村のこの村入用帳の内容は表24のようである。大別して、領主御用費、村政費、村共同体費に分けられよう。領主御用費には坂木代官所への出張費(表24-(1))と郡中割(ぐんちゅうわり)((2))がふくまれる。代官所出張費の中心は年貢の関係である。幕府領は年貢をすべて代金で納める皆石代納(かいこくだいのう)で、この年貢金を十月・十一月・十二月と翌年正月の四分納で代官所へ持参して上納した。この享保十三年はまた、享保十年に始まった三ヵ年定免(じょうめん)年貢が前年で年季切れとなったため、新たな定免年貢を代官所と折衝してとりきめている。郡中割のほうは、代官所の陣屋修復、飛脚賃、人足賃、水夫(すいふ)(炊事夫)給などの経費が郡中(代官所支配全村)に石高割りで割りあてられるものである。なお、銭計算は九六文をもって一〇〇文とするという江戸時代の九六銭(くろくせん)慣行によっている。たとえば坂木出張日帰り四八文という規定は、一〇〇文の半額ということである。
村政費は、領主関係などの業務を除く狭義の村政にかかわる支出である。これには、名主給(表24-(8))・組頭給((9))と名主の走り使いを勤める定夫(じょうふ)給((10))という村役給与と、筆墨紙代((5))や油・蝋燭(ろうそく)代((6))が数えられよう。村共同体費としては、害虫よけ祈祷の虫祭り((3))、台風よけ祈祷の風祭り((4))と猪鹿(しし)威し鉄砲((7))の入用がある。村の生産・生活を守るための村民共同の行事である。
旗本松平氏の更級郡塩崎村(篠ノ井)に陣屋をかまえた塩崎知行所でも、村入用夫銭帳を徴した。塩崎村には明和二年(一七六五)以降、帳そのもの、またはその部分記録が飛びとびに残っている(『塩崎村史』)。明和三年の夫銭帳の記載内容を六分類に整理してかかげると、表25のようである。塩崎村の村役人給は、庄屋は持高のうち八〇石分の諸役・夫銭免除、組頭(一二人)は持高一五石ずつの免除という方法によっているため、夫銭帳の支出項目外になる。この年、村入用夫銭の合計は銭四三五貫文余にのぼった。この年の両替相場四貫文で換算して金一〇八両余に相当する。
支出をみると、領主御用費(表25-(1))は計五三貫二〇四文(全体の一二・二パーセント)である。ただし、このなかには郷蔵(ごうぐら)屋敷小作料として上納する金額が過去九ヵ年にわたって間違っていたため、この年まとめて集めたというものが一〇貫文余ふくまれている。村役費((2))は、計七〇貫九一七文(一六・三パーセント)になる。村高約三〇〇〇石という大村のため定夫を七人半用い、その経費が約五九貫文と多い。村の訴訟費((3))は、松代領の隣村との村境出入りが所領違いのため江戸の幕府評定所へもちこまれたその訴訟費用である。村絵図を仕立てさせたりするため技能をもつ筆子(ふでこ)を雇ったのをはじめ、計一九貫六四八文(四・五パーセント)かかっているが、このほかにも領主御用費・村役費のなかに訴訟関係がふくまれているかと思われる。つぎの橋・溜池(ためいけ)・道・山など管理修復費((4))は、村の板橋をかけかえた経費のほか、村の生産基盤である溜池・川除(かわよけ)(堤防施設)・村中持ち山の見回り番への報酬で、計三一貫四〇六文(七・二パーセント)であった。村の付き合い費((5))には、舟渡し分担金や各種の進物・歳暮・年玉などを分類したが、計二三貫三八六文(五・四パーセント)になる。
これらにくらべて圧倒的に多額なのは、村内組々の出費((6))の計一九九貫九六六文(四五・九パーセント)である。この点に、他の通常の村々とはっきり異なる塩崎村の姿があらわれている。雨乞い・風祭り・虫送り祈祷、用治水の自普請、諸伝馬人足割り、ごぜ・座頭(ざとう)などの宿泊・合力銭、神社祭礼などが、越(こし)・長谷・四宮(しのみや)・角間(かくま)・山崎南・山崎北・平久保(へくぼ)・篠ノ井上・篠ノ井下の九組のそれぞれでおこなわれており、その夫銭は組ごとに組頭を中心に百姓立ち会いにより勘定されている。各組の入用夫銭額は先の今井村一村に相当するほどの額にのぼる。塩崎村はこのように、村共同体としての機能からは九ヵ村の連合村といってもよい実情にあった。しかし、行政村としては一村でありつづけ、したがってこの村入用帳も塩崎村として一帳にまとめて領主役所へ提出している。
この年、塩崎村では村入用夫銭合計額を庄屋・組頭給分などを控除した村高で割り、持ち高一〇石あたり銭二貫四八〇文の割合で村民から集めた。他村では多くの場合、最初一軒あたりいくらという軒(のき)割りで割りふり、「経済力に格差があるのに軒割りでは不公平だ」とする小百姓の批判により、持ち高割りを全部または一部に取りこむ方法に変わるが、塩崎村では少なくとも明和以降は一貫して持ち高割りであった。
ところで、明和年間をふくむ江戸中期からくだって一八世紀末から一九世紀の江戸後期になると、村入用は増大し村民負担が増すというのが、どの村にも認められる趨勢(すうせい)である。塩崎村の村入用夫銭額の変化をみると(表26)、寛政十年(一七九八)には増えはじめ、文化年間ごろから幕末へとほぼ増大の一途をたどる。この時期には物価がじりじりと上昇し開港後には急騰(きゅうとう)したが、そのせいばかりでないことは年貢上納金額とくらべればわかる。村入用金額を年貢上納金額と比較してみると、江戸中期には前者が後者の一〇パーセントそこそこであったのにたいして、後期に入ると一〇パーセント台後半から二〇パーセント台、三〇パーセント台にも増し、明治五年(一八七二)にはじつに四三・九パーセントを占めるにいたる。
寛政五年(一七九三)の六月と七月、塩崎陣屋の門内に「塩崎村惣百姓」と記す捨文(すてぶみ)が投げこまれた(『塩崎村史』)。内容は庄屋批判であったが、なかに夫銭のことがあげられていた。江戸出府のさい、御役人様への進上物も江戸屋敷滞在費も「手前の勝手に相成り候間」みな夫銭として割りかけ、春の夫銭割りも七月の夫銭割りも莫大(ばくだい)な額となり、「このとおりにては百姓潰(つぶ)れ候、御救い御吟味下さるべく候」などと記されていた。村入用が増すにつれて、村民とくに小前百姓層の不満は高まる。しかし、江戸後期の村入用の増大は、村役人の浪費ばかりに起因するものではなかった。領主役所が求める仕事の増加ということもあるし、なにより村政・村運営のための仕事の増大があった。小前百姓層をはじめ村民の、村にこうしてほしいとする期待や要求は、江戸後期に広がり高まる。その結果、村は昔はなかった役割・機能をもになうようになり、いきおい村入用夫銭の増大は避けがたかったのであった。