松代領では三代藩主真田幸道(ゆきみち)のとき、寛文(かんぶん)六年(一六六六)に指出(さしだし)検地を実施した。これは百姓の田畑所持高を調査させ、水(みず)帳(検地帳)に記して提出させたもので、百姓個人別の水帳と、これを合冊した形での村全体の水帳の二種類からなっている。水帳は個別の百姓ごとに田畑の筆数や所持高が記される名寄(なよせ)帳の形式をとっている。寛文水帳とよばれて、松代領では以後の年貢徴収の基本となった。この検地による水帳の作成で、本百姓と非本百姓とが区分され、百姓内の身分も固められた。その具体例を二つあげてみる。
水内郡鑪(たたら)村(芋井)では、寛文検地で又助・庄八ら六人だけが田畑・屋敷地を名請(なう)けしている。村高は二一〇石ほどで、それをこの六人が三〇石台というほぼ等分した形で名請けしている(『県史』⑦一五九)。慶長三年(一五九八)、上杉景勝の会津移封のとき、それにしたがった武士層が鑪村の支配を手放したあと、これら六軒が有力百姓として村の田畑を所持したと考えられ、寛文の検地で水帳に登録されたのであろう。その二〇年後の貞享(じょうきょう)五年(一六八八)に、この村では荒れ地防止のために村定めが作られており、「一人も残らず連印」したとされるこの文書には、百姓三一人が連署している(『市誌』⑬二四五)。このことからこの村の百姓は、寛文検地のときに六軒だけであったのではなく、水帳に登録された六人以外に、この六人に従属する多数の百姓が存在していたと考えられる。寛文検地では、鑪村に住む百姓すべてが水帳に登録されたのではなく、多くの田畑と屋敷をもつものだけにかぎられた。鑪村の場合は、六人だけが年貢や課役を負担する藩公認の本百姓、つまり村を構成する一軒前の百姓とされ、それ以外のものは非本百姓であった。
更級郡川合新田村(芹田)では、寛文六年の検地のときこの村の開発主である北村門之丞(もんのじょう)と八人の百姓だけが名請けしている。門之丞はこの村で最高の八七石あまりを所持し、ほかの八人はおよそ一〇から三〇石台を所持している。これらの高持(たかもち)百姓がこの村では本百姓として位置づいたのである。検地の前年、この村の吉蔵は、北村門之丞に「難儀している自分に新田畑をくださってまことにありがたい。この恩義を子孫にも申し聞かせる」と礼をのべ、御定法(じょうほう)にそむかないことを約束している(『県史』⑦一五六)。この証文では吉蔵は拇印(ぼいん)を押している。吉蔵のような非本百姓は、正式な印判をもてなかったのである。
松代領では、寛文検地のときに頭判(かしらばん)(本百姓)が定まった。したがってこの検地は、本百姓である頭判を中心に村を再編する意味をもった。基本的には頭判と判下(はんした)との身分があり、頭判は一打(いちうち)ともいった。頭判は年貢や諸役を負担し、領主に差しだす人詰(にんづめ)改帳・宗門人別帳や五人組帳に「一(ひとつ)」と書いて名前を書き、名前の下に印判を押すことができた。各村ではこの頭判たちが中心になって村を運営した。入会・用水・村役人選挙などに直接参画できたのは頭判のものたちであった。頭判内部ではやがて、村役人になれる階層の頭立(かしらだち)など大前(おおまえ)とそうでない小前(こまえ)(小百姓)とに大別されるようになった。
判頭百姓の下には、判下とよばれた非本百姓がいた。判下の百姓には「一」は書かれなく、頭判の下段または左横に名前が記された。自身の印判は押せなかった。判下はいくつにも種別され、複雑な身分差があった。この種別は一時期にまとまって設定されたものではなく、徐々に定まっていったものである。幕末の慶応四年(一八六八)時には、別家(べっけ)・合地(相地)(あいじ)・加来(からい)・門屋(かどや)・地下(じげ)・帳下(ちょうした)・借地(しゃくち)・借家(しゃくや)などの百姓身分がみられた(『坂口家文書』 県立歴史館蔵)。別家は本百姓にもっとも近い身分として、江戸後期に百姓の要求を受け入れて松代藩が新たに設定したものであった。別家は本家からまだ高分けしない血縁分家で、合地は耕地をもつ分家、門屋は家内下人がなかば独立して一戸を構えたものである。このほかに主家の家屋で寝起きして主家の労働に従事したとみられる奉公人の下人(げにん)がいた。加来もそれに近い。慶応四年の五人組帳を整理した調査結果では、松代領内の百姓家総数約二万五〇〇〇軒のうち、本百姓が約一万八〇〇〇軒、判下百姓が約七〇〇〇軒であった(『更級埴科地方誌』③上)。