判下層は自立をめざすなかで、頭判・本百姓への昇格を強く望んだ。文政十年(一八二七)、更級郡東福寺村(篠ノ井)の別家三人は、自分が所属する帳頭(ちょうがしら)と組合の了解を取りつけて、村役人に頭判への昇格を申しでた。この三人はいずれも寛政年間(一七八九~一八〇一)に別家となったもので、この年にはそれぞれ九石、一〇石、二九石あまりの田畑を所持する高持百姓になっていた。要求を認めた村役人は、三人の頭判(頭名(かしらな))昇格承認を代官所へ願いでた。この村では天保(てんぽう)五年(一八三四)に、合地の伊左衛門も頭判への昇格を願いでた。伊左衛門は「御高(田畑)なども買い入れ、当時(現在)一八石余も所持つかまつり」といった高持百姓になっていた。
嘉永三年(一八五〇)、田野口村(信更町)の合地慶蔵ら三人が、自分たちの頭判と他の組の了解を取りつけて、頭判への昇格を村役人へ願いでた。安政七年(万延元年、一八六〇)には、合地の滝八も頭判昇格願いを出した。この願書には、滝八の頭判である市郎左衛門とその合地・借地四人をふくむ判下一〇人が連署している(『県史』⑦七七一)。こうしてみると、従属百姓の昇格は、村役人が頭判として適格であると認めた場合に、藩へ承認を求めるという形で認証されたこと、頭判に準ずる身分であった別家と合地からは、頭判への昇格は比較的容易であったことがわかる。
判下から頭判への昇格だけでなく、判下内でも昇格とみられる身分の変更がおこなわれた。天保八年には、東福寺村の帳下佐多吉が合地への昇格願いを出した。つづいて九年には加来の勇之助が合地へ、嘉永六年には加来の林左衛門も合地へ昇格願いを出していずれも変更が認められた。このように帳下や加来からは頭判に近い合地への変更が昇格コースのひとつになっていた。万延(まんえん)元年(一八六〇)には、更級郡大塚村(更北青木島町)の門屋惣三郎が帳下への昇格願いを出して認められている(大塚 町田重夫蔵)。判下内での昇格は、所属する頭判による認証で変更が可能になった。
更級郡広田(ひろだ)村(更北稲里町田牧)では、古くから頭判が二五軒と決まっていて、ほかのものはいつまでも判下と格づけされていた。ところが江戸時代の後期になると、自分が所属する帳頭に無断で、新たに頭判になりたいと村役人へ願いでるものがあらわれだした。しかし、それらの願いは聞き入れられなかった。そのため判下たちは、文政九年(一八二六)の名主入札(いれふだ)(投票)のさいに、団結して自分たちの仲間から名主を当選させてしまった。このころになると、広田村のように判下のものであっても、名主の選出にかかわることができるようになった村もあった。名主に当選した源重郎は、頭判に取り立てられ一年間だけ名主役を勤めた。判下層のこうした動きのなかで、九〇軒ほどのこの村では、文政十一年に、合地九人・別家七人・帳下三三人がいっきょに頭判に昇格した(『更級埴科地方誌』上③)。判下層の身分昇格は、村によって温度差があり、扱われ方がいくぶん異なっていたといえる。
村役人には村の有力者がなるのがふつうで、松代藩では原則的には頭立(かしらだち)であることが条件とされた。頭立身分は他藩にはみられない松代藩特有のものであった(三節二項「松代領の頭立制」参照)。この頭立は小前(こまえ)百姓層に属していたものを、藩が村役人の推挙と村中百姓の了解を得て昇格させることになっていた。小前百姓は本百姓にはちがいないが、なかにはその身分に満足せず頭立への昇格を強く望んだものもいた。天保五年(一八三四)、水内郡桐原村(吉田)では多兵衛ら三人が頭立の推挙を得た(『県史』⑦七四七)。まず村の小前全員の総意で三人を推挙し、村役元へ願書を提出した。これをうけて村役元が藩役所あてに三人を推挙した。このときの文書によれば、家数四〇軒ほどの桐原村は、これまで頭立が三人だけで村内の取り締まりが不行き届きであったため、新たに三人の取り立てを決めたとしている。小前の要求を受け入れつつ、村政の円滑化、民政の安定化をはかるために頭立の増員がはかられたのである。これは藩の政策とも合致していた。
松代藩は頭立によって小前を、頭判によって判下を統制しようとした。文化十三年(一八一六)、若者仲間の不行跡や、頭立をないがしろにする小前を取り締まろうとした藩は、「頭立は小前をあわれみ、小前は頭立を重んじ、万事実意をもって取り計らえ」と命じた。これをうけて埴科郡岩野村(松代町)では奉行所あてに村中連判の請書(うけしょ)を作成している(『市誌』⑬一九八)。田野口村(信更町)では天保六年、頭判の治右衛門あてに、判下の加来七人・地下一人・合地三人が五箇条の誓約書を書いている(『県史』⑦七五〇)。村役人の言いつけを守ること、組合・五人組・親類が仲よくむつまじくすること、悪事に加担しないこと、村役人への申し出は帳頭を通じておこなうこと、といった内容をふくんでいる。これは村内の治安維持を目的に松代藩が触れだした内容をうけての請書である。
松代藩は天保八年に、村寄り合いにおける百姓の席順を定めた。これは以前にも触れだしたが徹底していないとして、再布達されたものである(『上水内郡誌』歴史篇)。席順はまず村方三役人、つぎに頭立の順となる。三役人は名主・組頭・長百姓の順に、頭立は三役をつとめた年数および跡式(あとしき)相続の順といったように細かな基準をもうけた。頭立のつぎは頭立並方、羽織着用のものとなる。つぎの席が頭判である。このなかでは三役経験者は年数順、ほかは所持高順とされた。ここまでが一打(いちうち)百姓(本百姓)である。以下は合地・地下・加来・帳下の順となっている。これら判下百姓は、自分が所属する頭判の席に準拠して席順とされた。こうした席順定めによって、藩は身分制の弛緩(しかん)を抑制しようとしたが、判下百姓にとっては頭判へ、小前は頭立へという身分昇格の意欲をかきたてることになった。
安政二年(一八五五)、田野口村の幸左衛門と熊右衛門のふたりが新たに頭立になった。このとき盛大な披露宴が開かれた。午前には村役人・頭立・寺僧・神主・医者・組合頭判ら三二人を、午後は村の百姓全員を招待して酒・料理・赤飯などをふるまった。二日間に七九人が金銭や扇子などの祝儀を持参している。新たに頭立になった二人は、松代藩の奉行役人らへも金品を贈った(『市誌』⑬四六三)。幸左衛門と熊右衛門にとって、頭立昇格がいかに大きな喜びであったかがわかる。昇格はもとでのかかることでもあった。慶応元年(一八六五)、同村の弥助は頭判に昇格するために、四石三斗あまりの土地を村内のものから借り入れている。このときかれは借用証文で、「頭判への付け替えがすんだら二、三年のうちには土地を返済する」と約束している(『県史』⑦七七七)。幕末になると、土地移動の手段を使っても頭判の地位を得ようとするものがあらわれたのである。慶応四年の田野口村の五人組帳では、一打(頭判)が六八軒、判下が五三軒で、判下のうち合地が四〇軒ともっとも多かった。従属農民の身分上昇は、幕末期までにかなり進行しており、これは松代藩全体の傾向でもあった。