上田藩川中島領の抱百姓

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元和(げんな)八年(一六二二)、真田氏が上田から松代へ移り、小諸の仙石氏が上田へ入ったとき、更級郡の川中島に八ヵ村、一万石余の上田藩飛び領地が生まれた。この村々は享保(きょうほう)二年(一七一七)にいったん幕府領になったが、同十五年からは半分の五〇〇〇石が、旗本松平氏の支配するところとなった(二章参照)。ここでも百姓は基本的に本百姓と水呑とに大別されたが、水呑百姓が「抱(かかえ)」として把握された点で、松代領や北信の諸領と多少のちがいがみられた。上田藩が「抱」を制度化していたため、それにしたがったのである。

 享保五年、今井村(川中島町)で作成された五人組帳には、組別に一五歳以上の男子全員の名前が記された(『小林家文書』 長野市博蔵)。そのなかでも大きめに名前が書かれた百姓が本百姓であった。この村一六組のうちのひと組をみると、この組には本百姓六人をふくむ男一六人の名前が書かれている。そのほかの一〇人は、本百姓の弟が三人、そのこどもが三人、ほかに抱百姓が二人、抱のこどもが二人で、名前は本百姓よりも小さく書かれている。五人組に所属してはいても、身分上は本百姓と区別された。抱はその属する本百姓につづいて記載され、判は全員がついている。庄屋・組頭をみると、庄屋吉右衛門家の場合、吉右衛門の弟二人と父親、ほかに五人の抱と抱の息子四人がいる。吉右衛門とあわせて一三人である。四人の組頭には、血族二人のほかに九人の抱と抱の息子四人がいた。村全体では、本百姓が九二人、その血族が八六人、抱百姓が三六人、その血族が六九人である。抱百姓三六人のうち、庄屋と組頭の抱になっているものが一四人もいることから、村の有力者ほど抱を多くもっていたことがうかがえる。なお、これらの数値には、女性と一五歳以下のこどもはふくまれない。


写真8 享保5年(1720)今井村五人組帳
(『小林家文書』長野市博蔵)

 享保六年、今井村ではこれまで長期間庄屋役をつとめた吉右衛門が病気を理由に退役し、事務を善八に引き継いだ。この名主交代の文書に、組頭四人と長百姓一六人、それに百姓六六人が署名連判している(小林家文書)。長百姓と百姓は、いずれも前年の五人組帳では名前を大きく書かれた本百姓である。抱百姓たちが連判に加わっていないのは、村役人の交代には関与・参画できなかったためである。享保十五年の同村の村差出明細帳には、「家数一五三軒、内一〇三軒本百姓、五〇軒水呑(みずのみ)」と記されている(『堀内家文書』 県立歴史館寄託)。五〇軒の水呑とはすなわち抱百姓を指していると考えられる。この村では抱百姓は水呑として把握されたのである。

 抱百姓とは別に、村内には有力百姓家で働く多数の奉公人がいた。これらの奉公人は、下男(げなん)・下女(げじょ)として諸帳面に登録された。この時期、塩崎知行所であった今井村では、享保十六年の一年間に九四人の奉公人(いずれも一年季奉公)がいた(小林家文書)。寛保(かんぽう)四年(一七四四)には、六四人の下男と八三人の下女という多数に達するが、奉公人の数はこの年をピークに以後はしだいに減り、宝暦六年(一七五六)には下男二一人、下女二八人となる(堀内家文書)。

 五人組帳だけでなく、他参帳や宗門人別改帳などの公文書にも百姓身分が明記された。元文(げんぶん)三年(一七三八)の今井村他参帳(小林家文書)には、まず帳外(ちょうはずれ)(行方不明者・除帳)のものとして抱弥七と抱弥次右衛門のふたりが、つづいて他村へ引っ越した抱藤助と、他村へ嫁いだ抱八右衛門の娘きいが記されている。さらに二歳で死んだ市之丞にも抱孫市の男子と記されている。寛保二年の宗門人別改帳には、四三軒の抱百姓が記されている(同前文書)。抱百姓は一家をなしていて、旦那寺は属する本百姓とは異なることもある。

 今井村の本百姓と水呑百姓(抱)の推移を追うと、宝暦四年には本百姓一四〇・水呑三四、寛政四年には本百姓一五五・水呑三七となっていて、文化十年(一八一三)の五人組帳では、抱百姓の記載がみられない(堀内家文書)。これは水呑百姓がまったくいなくなったのではなく、書かれなくなったのであろう。この村では文化十五年には、小間物商売・古着商売・茶売り・菓子屋・豆腐商売などの小商いをするものがいたり、大工(だいく)・桶屋(おけや)・畳指(たたみさし)・煙管張(きせるはり)などの職人もいる。人数は八四人にもおよんだ(同前文書)。商業的な経済活動がさかんになるにつれて、これまでの土地所持の有無や多少による本百姓・水呑といった身分上のとらえ方がむずかしくなってきていることをうかがわせる。

 享保十六年、更級郡中氷鉋(なかひがの)村(更北青木島村)では洪水で家財・夫食(ふじき)が押し流され、生活苦におちいったものが多数出たので、役所へ申しでて御救い米三〇俵を借りうけた。村ではこの御救い米を三〇軒に均等配分したが、本百姓が七軒であったのにたいして、水呑百姓は二三軒もあった(『青木家文書』長野市博蔵)。水呑百姓の経済状況が安定していなかったことを示している。この村では、本百姓と水呑百姓を日ごろから明示していた。享保二十一年、他領や他国への出奉公にあたって、五人組や家内で順守すべきことを書いて百姓二〇人が署名して庄屋へ提出した。この文書では先に本百姓一一人が署名し、つづいて水呑百姓九人が署名している(同前文書)。また、寛保三年には、藩からの布達をうけて博打(ばくち)、博打宿、胡乱(うろん)なるものの宿などを禁止する村定めを作成した。そのさい、御百姓(本百姓)組合の代表六人と水呑組合の代表三人が署名している(同前文書)。こうした形でつねに百姓個人の身分を明らかにしているところに、この村の特徴がみられる。御百姓組合の一員として署名している半四郎の弟七次郎が、寛延(かんえん)三年(一七五〇)に、小県郡田中組本海野(もとうんの)村(小県郡東部町)の藤九郎の抱になることがきまった(同前文書)。七次郎は本海野村へ引っ越し、商い渡世をするという。本百姓の家に育っても、移住先ではかならず最初は抱になった。御百姓身分は固定ではなかったのである。