須坂藩では、元和六年(一六二〇)、七年と、寛永四年(一六二七)から七年までの二度にわたって検地をおこなった。この検地は、慶長三年(一五九八)の太閤(たいこう)検地と、同七年の森忠政による検地をもとに、反別の丈量だけをおこなった地詰(じづめ)検地であった。須坂領のうち市域である高井郡綿内村(若穂)では、寛永五年に地詰検地がおこなわれた。この地詰帳で屋敷地や田畑を名請(なうけ)している農民が一軒前の本百姓とされた。
綿内村には延宝三年(一六七五)の「家数書上帳」がある(『市誌』⑬一七四)。これには村内の各組ごとに、家の身分的な性格が記されている。たとえば、上町両組では、家数三四軒のうち二五軒が本屋(ほんや)で、二軒が相屋(あいや)、一軒が奉公人、六軒が門屋(かどや)といったふうである。北村門之丞(もんのじょう)が開発したとされる大豆島(まめじま)の新田をふくめた綿内村全体では、本屋は三一〇軒、ほかに相屋五七軒、門屋六一軒、奉公人二九軒となっている。本屋は田畑をもち年貢・課役を負担する本百姓で、相屋はそれに準ずる百姓、門屋と奉公人は本屋に従属して家業・家事に従事する水呑百姓であった。大豆島本組と新組の家数は五五軒で、このうち三六軒が本屋、九軒が相屋、八軒が門屋、奉公人が二軒であった。史料からわかるかぎりでは、相屋九軒のうち、本組組頭の北村門之丞と新組組頭の源左衛門のふたりには、あわせて六軒の相屋があった。先にみたように、松代藩では一軒前ではない判下百姓を細かく分けて把握したが、須坂藩ではそうしたとらえ方はしていない。
飯山藩では、松平氏が一七世紀なかばの慶安年間(一六四八~五二)を中心に、寛文・延宝年間(一六六一~八一)にかけて領内の総検地を実施した。この検地によって家並(やなみ)百姓を設定して、本百姓身分を確立・固定した。屋敷地をもつ上層農民に家並株をあたえ、家並株をもつ百姓だけが一軒前の本百姓であるとした。この家並株には半家並・四半(しはん)家並などもあって、本(ほん)家並の半分あるいは四分の一の課役を負担させた。家並株をもたない農民は水呑百姓で、柄在家(からざいけ)などとよばれて、家並百姓に従属するものと位置づけられた。家並百姓は本家で、それに従属しているものに相屋や門屋があった。市域では、水内郡三才村(幕府領と分け郷、古里)、吉村・田子村(若槻)が、享保九年(一七二四)から飯山領になったが、同年の村差出明細帳では、とくに家並に関する記載はみられない。なかで田子村に三軒の水呑があるだけで、他村にはその記載もみられない。飯山領では江戸時代の中期以降、家並や柄在家の呼称は消えていき、本百姓と水呑という一般的な身分把握に移行していった。
幕府領では百姓の身分は公的には、屋敷・田畑をもつ本百姓と、それらをもたない水呑百姓との区分だけであった。本百姓には直接村政にたずさわることができた大前(おおまえ)(重立(おもだち))と、そうでない小前との別もあったが、これはどの領地内にも存在した一般的な階層であった。市域では、江戸時代をとおして幕府領であった村は少ない。ここでは、そのなかで水内郡栗田村(芹田)のようすをみる。
栗田村では延享元年(一七四四)の村明細帳に「百姓家八五軒、うち本百姓七八軒、水呑百姓七軒」とみえる。以後、宝暦十年(一七六〇)には、百姓家八六軒のうち、本百姓が八〇軒、水呑が六軒、寛政元年(一七八九)には、百姓家一〇二軒のうち、本百姓が九六軒、六軒が水呑となっている(栗田区共有)。この村では百姓家がしだいに増加しても水呑の軒数はかわっていない。享和三年(一八〇三)に中之条役所へ提出した五人組改帳では、「右(前書き)の御条目の趣、村中大小百姓水呑の者どもにいたるまで、残らず承知奉り候」とし、水呑百姓の場合は名前の肩書きに「水呑」と明記している(栗田 倉石里美蔵)。このとき水呑と肩書きされた百姓は、名主を除く九〇人のうちたった三人だけであった。天保九年(一八三八)には百姓家一二六軒のうち本百姓が一一八軒、八軒が水呑となっている(栗田区有)。文久元年(一八六一)になると、家数は一二八軒になるが、村差出帳では水呑の記載がなくなる(栗田区有)。こうしてみると、幕府領の百姓身分は松代領などの私領にくらべるとかなりゆるやかだったといえる。
身分や格にこだわった一面を示すものとしては、塩崎知行所と椎谷(しいや)領の例をあげることができる。塩崎知行所では百姓の格式席順を定めていた。これには御詰並(おつめなみ)・御家士並(おかしなみ)を筆頭に、徒士(かち)格・同次席・割番・割番格・庄屋・同見習・庄屋次席・庄屋格・組頭席などの役職格式順があった。さらにそこへ、苗字(みょうじ)・帯刀御免(たいとうごめん)や苗字御免、あるいは上下(かみしも)御免・袴(はかま)御免・羽織御免などもあわせて付された。これらは役所への献金などによって得られた特別の待遇であった。
椎谷領の水内郡問御所(といごしょ)村(問御所町)では、新兵衛が善光寺地震の被災者救済に功績があったとして、嘉永四年(一八五一)に大庄屋格、翌年には大庄屋見習、安政三年(一八五六)には大庄屋本役を仰せつかった(『久保田家文書』 県立歴史館蔵)。安政二年の江戸地震のあと、椎谷藩六川役所(小布施町)は、身元相応のものへ災害救援のために献金の触れを出した。このとき、二五両を献金した問御所村の宗作ほか三人が上下、苗字御免となった。ほかに少額献金者にたいしても羽織御免とした。こうした点をみると、江戸時代の後期には百姓の身分や格は、領主の施策と結びつきながらかなり流動性をもっていたといえる。