幕府領の五人組

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信州の幕府領における五人組帳は、寛永十七年(一六四〇)三月の佐久郡高野町村(南佐久郡佐久町)を初見として、各地に江戸前期のものが現存している。周知のように、五人組は村民に相互監視と相互扶助の役割を負わせるために編成され、寛永十年代(一六三三~四二)に始まり、明治維新にいたる。幕府領の五人組帳は、村民に守らせようとする領主法を箇条書きし、この前書(まえがき)を順守することを誓う形で、そのあとに村の男性が五人組ごとに名前を記し印判をおす。市域の村々には今のところ享保年間(一七一六~三六)以降のものしか見当たらないが、江戸前期から作成されていたと思われる。

 更級郡川中島の上田領八ヵ村は、享保二年(一七一七)に幕府領にかわったが、そのひとつ今井村(川中島町)の「御用御廻状写」帳(『小林家文書』長野市博蔵)の享保五年に、「一当子(ね)(享保五年)の五人組帳、正月の月附(つきづけ)にいたし、二月中に指出(さしいだ)さるべく候、尤(もっと)も前々仰せ渡され候通り帳外れのものこれなき様吟味いたすべく候、密(ひそ)かに差し置き候もの候わば、早々注進あるべく候」とある。その享保五年の「信州更級郡今井村子之御仕置(おしおき)五人組帳」(同前)がある。これをみると、前書の箇条書は「公儀より仰せいだし候御法度(はっと)の趣、常々心掛け堅く相守るべきこと」から始まり、全三三ヵ条におよぶ。末尾に「右の条々、名主方に写し置き、百姓寄り合いの度々(どど)読み聞かせ、急度(きっと)これを相守るべし、もし違背仕(つかまつ)り候輩(やから)これあるにおいては曲事(くせごと)(処罰)たるべきもの也(なり)」とある。

 前書各箇条の主題だけをあげてみると、公儀法度、切支丹(きりしたん)宗門、耕作出精、年貢割りつけ、村入用(むらにゅうよう)帳、郷蔵(ごうぐら)、欠落(かけおち)、親孝行と夫婦・兄弟・親類和合、質入れ証文への加判、人身売買・非道の年季奉公、博奕(ばくち)・賭(かけ)、田畑相続、堰(せぎ)・川除(かわよけ)・井堰、手代・家来の非分、御林保全、伝馬宿(てんましゅく)人馬・助郷(すけごう)、道橋保全、酒屋、寺社、遊女等、牛馬、猪(いのしし)・鹿(しか)・狼威(おおかみおど)し鉄砲、出火人・殺害人・盗賊の捕縛、印判管理、一味徒党(いちみととう)、訴訟手順、鳥類殺生、神事祭礼、衣類、婚礼祝宴などである。

 このような前書をうけて、庄屋・組頭が連判して請文(うけぶみ)を記し、「五人組をきめ、抱屋(かかえや)・借家(しゃくや)のものまで一五歳以上のものがひとりも残さず印判をおして差しあげる」としており、以下五人組ごとに村民の名前・押印がある。一五歳は江戸時代の成人年齢なので、村じゅうの成人男子が連判したわけである。

 前書箇条書のなかみも連印の仕方も、時期により、あるいは支配代官により相違する。今井村と同じ川中島八ヵ村でも、享保十四年の中氷鉋(なかひがの)村(更北稲里町)五人組帳(『更級埴科地方誌』③上)になると、享保八年から同文だという前書の箇条書はさらに詳細となって計五四ヵ条にのぼっている。領民にたいする領主法の規制事項をほとんど網羅しているといえよう。

 時期のくだる一例として寛政十年(一七九八)正月の水内郡千田(せんだ)村(芹田(せりた))五人組帳(『千田連絡会文書』長野市博寄託)をみると、前書は一一ヵ条と少ない。その内容も、百姓に似合わない奢り・遊芸、田畑の八重(やえ)売り(二重、三重に売ること)、若者の大酒騒ぎ、定例日以外の休日増、村役人に服さない小前百姓のわがままなど、江戸後期になって顕在化してくる村落秩序の乱れを問題としている。また五人組連印は、五人組各家の当主のみの名前と押印になっている。

 ところで、五人組はどのような編成原則によってつくられたか。寛永年間の佐久郡村々の五人組帳(『信史』27五九一~六〇一頁)には、前書の第一条に「五人組、仲よきものならびに親類ばかり組み申すまじく候、組みあわせ組みあわせ組み申すべく候」とある。仲のよいものや親類にかたよらないようにするとともに、貧富の百姓を組みあわせて経済能力でも各五人組の均衡をはかり、相互扶助や年貢の連帯責任を負いうるようにすることを意味していよう。そのさいに、いわゆる「向こう三軒両隣」との関係がどうなるのかははっきりしない。

 その点、前出の江戸中期享保八年の稲荷山村五人組帳前書では、その第二条でこう指示している。「五人組の儀、家並み最寄りしだい五軒ずつ組みあわせ、そのうちにて然るべきもの一人ずつ組頭に相極(あいきわ)め置き、借屋・門屋(かどや)・寺社門前(もんぜん)・下人(げにん)等にいたるまで、諸事吟味仕り、常々申しあわせ悪事出来(しゅったい)仕らず候様に仕るべく候こと」。家の並び順に最寄り五軒ずつをもって五人組を構成するよう明示している。この規定は以後の諸村の五人組帳前書でも記載され、幕末慶応三年(一八六七)の水内郡栗田村(芹田)五人組帳(栗田 倉石里美蔵)前書でも、同じ第二条にまったく同文でかかげられている。なお、五人組の正規の構成員は本百姓にかぎられ、抱(かかえ)・借屋・門屋などの非本百姓層はそれぞれの主家に付属して記載されることになる。

 村々の五人組のじっさいの組み合わせを五人組帳からうかがってみよう(表27)。江戸中期、享保年間の今井・中氷鉋両村の場合、組平均軒数はそれぞれ五・八軒、五・三軒であり、軒数別組数をみると五軒構成を中心に多くても六軒、少なくても四軒という範囲で構成されている。家並み最寄り五軒ずつで構成するという原則はほぼ守られているといえよう。これにたいして、安永四年(一七七五)の水内郡荒木村(芹田)では、平均が六・二軒と増し、八軒・七軒といった構成の五人組があらわれている。


表27 幕府領諸村の五人組構成 (付)浜田領

 さらにくだって栗田村の享和三年(一八〇三)と天保八年(一八三七)では、平均で六軒をこすとともに、多いほうでは七軒・八軒から九軒・一一軒、少ないほうでは三軒・二軒といった五人組があらわれてくる。五軒で編成という原則からはかなり離れてきているといえよう。そうかといって、原則を乱しっぱなしでなかったことは、千田村で寛政十年(一七九八)の全一二組から文政五年(一八二二)の一四組へ、栗田村で享和三年の全一五組から天保八年の一八組へと、五人組数が増加していることから推定できる。五人組数が増加しているのは、このあいだに五人組の編成替えがおこなわれたことを示しているからである。

 五軒一組という構成原則が、ゆらぎつつも江戸後期までともかくも維持されてきているのが、幕府領の五人組であったといえよう。ただし、一貫して「家並み最寄り」の組み合わせであったとはかぎらない。かつて主家に属していた小百姓が自立して本百姓に昇格した場合、離れた場所に新たに家を建てても旧主家の五人組にそのまま属している例が見うけられるからである。