松代領の五人組

442 ~ 450

藩や旗本知行所では、五人組が制度化されたことは同じでも、その編成や五人組帳の作成には幕府領と異なっているところがある。

 川中島に所領のあった上田藩では、仙石氏時代の寛文七年(一六六七)ごろからの五人組帳が残されている。これは宗門人別改め帳を兼ねたものであった。しかし、宝永三年(一七〇六)の領主交替で松平氏になると、宗門帳が作成されはじめるいっぽう、五人組帳はつくられなくなった。かわりに五人組が連印する法令請書(うけしょ)がときどき提出される。もっとも詳細な法令請書は天保三年(一八三二)正月の「五人組常々心得之条々」で、全一二六ヵ条からなる詳細をきわめたものであった。その第一条に「五人組の儀、家並み最寄りしだい五軒ずつ組合に相極め、そのうちにて然るべきもの一人を判頭(はんがしら)に相立て」と、幕府領と同じ原則が記されている(『真田町誌』歴史編 下)。このように上田領の場合、五人組の編成原則は幕府領のそれにならういっぽう、五人組帳の作成については異なっていた。

 松代藩では、江戸前期に五人組帳は作成されなかった。藩独自の村民男子を記載する人詰(にんづめ)御改め帳がある。享保十一年午(うま)年(一七二六)に幕府が六年ごとの全国戸口調査を制度化してからは、幕府に領内男女人口を報告する必要があり、寛延三年(一七五〇)以降午年・子(ね)年に女人詰帳もつくられるようになるが、五人組帳と名づける帳は作成されなかった(宗門人別帳も作成されない)。しかし、享保年間(一七一六~三六)ごろから、人詰帳が五人組帳を兼ねるようになる。村民男子全員を列記するさい、五人組順にのせ組ごとにその集計人数も記すという形のもので、「人詰五人組御改帳」などと題される。女人詰改めにも「女人詰五人組御改帳」がつくられ、五人組ごとに当主名の下に女性家族が列記される。同じ享保年間ごろ以降、「切支丹宗門御改帳」もつくられはじめた。

 後期の一九世紀になると、人詰帳・女人詰帳・五人組帳・宗門人別帳を一括してまとめたような「宗門人別御改五人組御書上帳」などと題する帳面がつくられはじめる(帳面名はさまざまである)。これは、村の本田高・新田高を最初に記し、五人組ごとに各家族の男女全成員を記載するものである。男女全員を記載する帳はこれまでになかったが、この帳にはほかにもそれ以前の諸帳とは異なる特徴がある。

 まず、これ以前の諸帳においては、判頭(はんがしら)(頭判、一打(いちうち))と判下(はんした)という身分制的枠組みのもとで、判下身分のものは一打の下に一打の家族として書かれていた。このため、じっさいには分かれて生計を営む判下の世帯家族があっても区別しがたかった。これにたいして今度の帳では、判下身分のものでも世帯を構える当主は、「一(ひとつ)」は付けないけれども一打当主と同列に帳面の上段に記すようになる。つまり、はじめて家族(世帯)が実態どおりに書かれるようになった。また、一般にどの所領でも女房・母などとだけ記して名前を書かれなかった女性が、この帳では女房・母を肩書としすべて実名で記されるようになった。これらは、ここでは立ちいれないが、民衆生活における判下小百姓の自立要求や女性の地位の高まりという時代の趨勢(すうせい)に見あうものであったといえよう。

 右の後期の松代領五人組帳にも前書があるが、箇条書はほとんど固定したままであり、村に残る五人組帳控えには前書を略したものが多い。天保五年(一八三四)水内郡広瀬村(芋井)五人組帳前書(『芋井村誌』)は、以後幕末まで村々で受けつがれている前書であるが、二三ヵ条からなっている。その第二条は、五人組の編成・目的にかかわる箇条で、つぎのようである(読みくだしにあらためる)。

一(ひとつ) 組合頭判・合地(あいじ)・帳下(ちょうした)・借屋・門屋(かどや)・加来(からい)、村内男女一人も洩らさず組合人別に入れ、社人・神子(みこ)・修験(しゅげん)・行人(ぎょうにん)・道心(どうしん)等そのほか召使末々にいたるまで、悪事致さざる様、組合相互に吟味致し、常々家業を怠り、大酒を好み、遊興致し、無益の金銀を遣(つか)い捨て、長脇差(ながわきざし)をさし、あるいは喧嘩口論がましき儀致し候ものこれあらば、三役人・組合にて意見差し加え候ても相用いず悪事致し候ものは、早々申し立つべきこと

 松代領では五人組を構成するさい、まず、頭判をもって五人組をたて、そのそれぞれの頭判家に属している血縁者や合地・帳下・借屋・門屋・加来(さらに別家・借地等々)などの判下百姓はすべて主家といっしょに記され、したがって主家と同一の五人組に属する。五人組ひと組の記載例を、天明八年(一七八八)の更級郡杵淵(きねぶち)村(篠ノ井)人詰御改め帳(『更級埴科地方誌』③上)であげてみると左のようである。

   年五拾三 一伴右衛門印    子   年弐拾四 利七    弟  年四拾八 善蔵印

   年四拾四 一喜左衛門印    帳下  年四拾八 宇左衛門  子  年弐拾三 団治郎  子 年八ツ 熊治郎

                  帳下  年三拾壱 喜平治   子  年七ツ 初治郎   子 年拾 留蔵

                  合地  年三拾壱 定右衛門  子  年拾六 貞四郎   弟 年五拾五 佐左衛門

  ○政右衛門・藤右衛門・勘右衛門・伊右衛門の四軒省略

   五人組人数〆五拾四人 (判頭六軒、判下一四軒あり)

「一(ひとつ)」と書かれるのが判頭(一打、頭判、本百姓)で、五人組の正規の構成員である。その下に、当主の兄弟・従兄弟(いとこ)・甥(おい)等々の血縁者と、帳下・合地等々の判下とが記される(判下には血縁者も非血縁者もある)。そして当主自身の夫婦・親子にこれらの血縁者・判下が加わって、ひとつの「家」を構成しているというのが、松代領五人組の記載原則である。そして先の五人組帳前書のとおり、頭判はその全員を責任をもって統率しなければならない存在である。これらの人びとはかならずしも同じ家屋敷に起居しているわけではない。むしろ、血縁者にも判下にも結婚して世帯をなし、別に家屋をもち別途に生計を立てているものがふくまれているのがふつうであるが、それでも五人組帳上の「家」としてはひとつと見なされる。前記したように、一九世紀の新たな帳面では、独立の世帯をかまえる判下の当主は主家のあとに主家当主と同列の高さに記されるようになるが、主家の「家」に属するものという位置づけは変わらない。

 そのこととも関係して、いまひとつ幕府領五人組と異なるのは、五人組を構成する軒数と人数が多いことである。実例として、更級郡・水内郡の若干の村々をあげた(表28)。五人組の平均軒数は、最小でも八軒余で、平均十数軒の村が多く、妻科村のように平均二五軒余といった村もある。したがって個々の五人組をみても、五軒前後によって構成されている五人組ははなはだまれで、ひと組が十数軒、二十数軒がむしろ通例であり、村によってはひと組が三十数軒から五〇軒近いといった大きな五人組もみられる。したがってまた、五人組の平均人数も、幕府領では二〇人台程度がふつうなのにたいして、五〇人以上という多人数となる。多い村では平均で九〇人、一〇〇人といったたいへんな人数になる。


表28 松代領諸村の五人組構成

 こうした大きな五人組のなかには、ひとつの五人組が、村を形づくる組(小名(こな)・小字)や枝郷(えだごう)そのものである場合も少なくない。慶応三年(一八六七)の千田村(芹田)をみると、六組の五人組のうち三組は、上千田組・日詰(ひづめ)組・母袋(もたい)組といった、こんにちでも町名表示に用いられている枝郷がそのまま五人組の単位になっている。天保十一年(一八四〇)の三輪村(三輪)でも、荒屋(あらや)組・橋場組は組がそのままそれぞれひとつの五人組になっている。

 このような松代領の村々の大きな五人組は、幕府領の「家並み最寄り五軒」原則とは異なる編成原則にもとづくと考えざるをえない。「家」の血縁者や判下層には江戸中・後期に自立して別世帯を構えるものが増大してくるが、かれらの新しい家屋が主家のある五人組の特定小区域の範囲にすべて収まることはありえないから、主家を離れて飛びとびに存在する実態になる。にもかかわらず、同一の五人組に所属しつづけるのである。また、そうした五人組を解体して編成しなおしたという形跡はない。

 つまり、仮に江戸前期の当初は、特定の小区域のなかに家並み最寄り的にまとまる地縁的な五人組から出発したとしても、江戸中・後期にははっきりと変容して、村内の各所に住居が離れてもひとつの五人組に帰属しつづけるという、「家」集団、もしくは同族(マケ)集団を維持することを主眼とする構成原則に事実上移行したとみられるのである。その結果、五人組の構成員が「家並み最寄り」とはならず、かなり広い範囲に分布することになる。その範囲は、ときには村内の組(小名(こな)、枝郷)の枠をもこえることになる。松代領の沓野(くつの)村(山ノ内町)では、ひとつの五人組に属するもののなかに、沓野組(そのなかに本郷組・原組がある)・渋湯(しぶゆ)組・横湯組といった組をこえて居住するものが多数存在している事実が、五人組帳の記載上および村絵図に落とした分布上確認されている(上村正名『村落社会の史的研究』)。表28の天保十五年(弘化元年、一八四四)北高田村(古牧高田)にみられる様相も興味深い。

 北高田村は北条組・久保組・中村組・川端(かわばた)組・五部市(ごぶいち)(五分一)組という五つの組からなり、各組の村落共同体としての独立性は高い。頭立(かしらだち)は各組ごとに置かれ、村役人は各組交替で出すことになっている。山年貢や市村(芹田)・布野(ふの)(柳原)の渡しの舟賃などは各組ごとに出している(『古牧誌』)。また、若者組も川端組など各組を単位としてつくられている(古牧 天神社蔵)。そのように独立性の高い組でありながら、組の枠をこえた五人組が存在している。村に五人組が八組あるうち、構成員が北条組だけのもの一組、川端組だけのもの二組以外の五組は複数の組にまたがっている。たとえば、一六軒(八七人)からなる五人組は、久保組の七軒と中村組の九軒で構成されている。別の八軒(三七人)からなる五人組は、川端組の三軒と中村組の五軒からなる。こうした状況は、かつてはどちらかの組のなかの五人組であったが、その後独り立ちした百姓たちが他組の地籍に家屋敷をつくり、にもかかわらず所属する五人組は従来のままでありつづけたということに起因するであろう。

 松代領の村々では、江戸中・後期にくだるにつれ、「家並み最寄りしだい」の五人組の地縁性はいっそう薄らぎ、かなりの広域にわたって構成される「家」(同族)的集団の面が色濃くなってきているといえよう。