親類集団

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弘化四年(一八四七)三月の善光寺地震は無数の悲劇をもたらしたが、なかに親類全滅という事態もあった。地震の当夜、東之門町の堤家では水内郡新町村(信州新町)から嫁を迎えて婚礼の宴の盛りだったが、家屋が潰(つぶ)れると同時に出火した。堤家では親・悴(せがれ)・弟が逃れでたが、宴席にいた親類三八人が死んだ。なお、隣家の麻屋広吉夫婦が堤家へ手伝いにきていて、広吉のみ命からがら逃れたが、妻も留守宅の家内六人・下男下女六人も死んだ(「鷲沢家記録」信濃教育博物館蔵『長野史料』)。本家の慶事に招かれてきていた親類(分家)たちが、たちまちのあいだに全員死亡したのであった。

 民俗学・社会学などでは同族団とか本・分家集団とよぶが、それに相当する集団を近世の領主文書・村方文書では親類(まれに親族・一族・一類)と記すのがふつうである。親類の一例をみよう。

 更級郡川合新田村(芹田川合新田)の北村家は、この新田村の開発人で、初期には「新田大将」と称された。天保九年(一八三八)に家督を継いで数年をへた、八代めの北村門之丞が松代藩役所に提出した「先祖より数代始末御書上」(川合新田 北村家旧蔵)によって、同家の閲歴のあらましをみるとつぎのようである。

 初代は越後の人で、柴田佐渡といって上杉謙信に仕え、天正六年(一五七八)謙信死後に家督相続を争った景勝・景虎の御館の乱(おたてのらん)で敗れた景虎に味方したため、浪人して綿内村(若穂)に蟄居(ちっきょ)した。天正十年景勝が北信濃を手中におさめたとき、北村に改姓したという。その後、犀川べりの荒れ地開発を発願し、関崎河原の近辺を新田開発し百姓を集め、川合村の分地に居住したため川合新田村といった。北村家はそれ以後、たびかさなる千曲川・犀川の大満水で幾度も開発田畑の川欠けと村民の離散に直面し、北村家自身も再三居屋敷(いやしき)を失って居所を移している。そのいっぽう、寛永十年(一六三三)に四人を「百姓頭判(かしらばん)」(本百姓)に取りたて、二六人を「門之丞帳下(ちょうした)」としていたが、その小百姓たちの自立要求と諸役免除などの特権への批判に直面して苦渋する。村高は寛文六年(一六六六)の松代領指出(さしだし)検地のとき二四八石余あったが、それ以前もその後も転変した。享保十八年(一七三三)に家督相続した六代め(祐雪)は、身上(しんしょう)不如意におちいり江戸で修行して医師となり、七代め(祐伯)も農業のかたわら医業を継いで生計を立てている。

 この北村家から本家の各世代で分家に出たものをみると、図2のようであった。この結果、八代め門之丞の代までに、北村一族には川合新田村の本家のほかに、分家の子孫として綿内村に七家、本川合村に二系統の七家(うち和田姓四家)、真島村(更北青木島町)に九家、川田村(若穂)に三家、江戸に一家の、合計二七家が存在している。


図2 川合新田村北村家の親類(分家)

 そのさい、注意しておきたいのは、本家から分かれて出たものでも分家にはならない場合があることである。図2でわかるように、四代門之丞の二男太兵衛が村内へ婿入りし、五代甚左衛門の三男七左衛門が千田村へ養子に入っているが、かれらはその子孫が存在していても分家にはなっていない。このふたりは婿入り、養子入りしたその家の人になったのであって、そのとき北村家との「家」としての縁は切れたのである。これを除いて分家と本家のあわせて二八家が、この時点での北村家の親類(本・分家集団、同族団)ということになる。

 文書で親類というもののじっさいの呼び方やなかみには、地域により違いがある。近現代の例をみてみよう。市域では、本家は一般にホンケとよばれることが多いが、分家のほうはブンケのほかベッケ・シンタク・シンヤなどさまざまによばれる。本・分家集団のことは、ウチワとかマキ・マケとかよぶことが多いが、ドウセイ(同姓)・ドウケ・イッケ(一家)・イチゾク(一族)などとよぶ地域もある。なお、ウチワはふつう本・分家関係をそうよぶが、なかには結婚の仲人などのオヤブン・コブンの関係をふくめるところもある。本・分家関係をマキといい、親分・子分関係のほうをウチワとよびわける場合もある。また、ウチワなりマキなりには、妻方・母方の姻戚を入れないのが通例であるが、ときには嫁の実家までふくめている地域もある(以上、『市誌』⑩民俗編)。これらの社会的慣行には、江戸時代からつづいているものがふくまれているにちがいない。

 親類(本・分家集団)が一堂に顔をそろえる機会としては、結婚式・葬式・法事、新築祝い、年始、お盆などとともに、本・分家集団で祭る神仏の祭りがあった。

 このうち本・分家集団で祭る神仏は、稲荷(いなり)社・伊勢社・荒神(こうじん)社・白山社・山の神・諏訪社・天神社・秋葉(あきば)社・木曽御嶽(おんたけ)社や大日如来・観音など多様な特定の神仏のほか、「御先祖様」「祖霊」である場合もある。神仏の小社殿や祠(ほこら)が置かれるところは、本家の屋敷内がもっとも多く(屋敷神)、そのほか本家の所有地やマキ・ウチワの共有地のものもある(『市誌』⑩)。これも近現代の事例であるが、江戸時代にさかのぼりうることをふくんでいるとみてよい。

 元禄十年(一六九七)に松代藩がおこなった村々の堂宮改めを記録した『松代藩堂宮改帳』によると、里郷(さとごう)村々の堂宮はほとんど村中持ちになっているが、山中(さんちゅう)の村々には個人持ちのものが少なくなかった。一例として青池村(篠ノ井山布施)をあげると、左のようである(読みくだしにあらためる)。

   宮有り 一諏訪明神                 村中

   森有り 一氏神                   重兵衛

   森有り 一稲荷大明神                彦之丞

    「(朱書)此の彦之丞家断絶に付き、文政七年和談の上相願ひ、村持と成る、」

   無住  一地蔵堂   長三間・横二間        彦之丞

   地斗(ばか)り 一道祖神               市兵衛

  右の外堂宮一切御座なく候、後日のため一札仍(よっ)て件(くだん)の如し、

    元禄十年丑(うし)二月                肝煎(きもいり) 市兵衛

                              組頭 九兵衛

                              長(おとな)百姓 彦之丞

 諏訪社を村の産土(うぶすな)神(鎮守)として祭る以外は、彦之丞・重兵衛・市兵衛の個人持ちとなっている。個人といっても、同族団(本・分家集団)の氏神で、それを本家の名前で登録したものであろう。彦之丞が長百姓、市兵衛が肝煎をつとめていることから知られるように、村の最有力層の同族団が祭るものである。元禄よりさかのぼって戦国末・近世初頭には、里郷の村々にも諸同族団の氏神のみで村としての産土神がないところがみられるが、やがて有力同族団の神社を村中持ちに格上げし村の神社としていく。この動きは遅れて山中にも広がり、現にこの青池村でも文政七年(一八二四)の堂宮改めを機会に、旧彦之丞家持ちの稲荷社を藩に願って村中の神社としている。

 このようにして同族団の神が村の神に昇格した場合に、同族団ではそれにかわるささやかな社を本家の屋敷内などに祭りなおし、これが近代にいたるまで同族団の共同の神として存続する。村内最有力層の同族団でなくとも、江戸時代を通じて、屋敷神などの形で本・分家集団の神仏を祭ることは増加したと考えられる。