年齢集団としての若者組

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村落共同体のなかには年齢集団が存在する。一般に、数え六~八歳から一五歳未満のこども組、一五歳という当時の成人年齢で加入する男子の若者組(加入することにより成人として認知される)、十二、三歳ごろから結婚までの娘組、そして若者組退会者の中老(ちゅうろう)組、ほぼ還暦以上の年齢層の年寄組などがあるとされている。なお、さまざまの宗教的な講の集団にも、嫁だけの子安(こやす)講、老年の女性による念仏講など一種の年齢集団がみられる。このような各段階の年齢集団が江戸時代に比較的顕著に認められるのは西日本で、信濃をふくむ東日本の場合、かならずしも村々に各集団が形づくられていたとはいいがたい。市域の近世においても、残されている文書史料によって、実情をかなりに明らかにできるのは若者組だけで、あとは若者組を退会した年齢層のもの(中老組)のことが知られる程度である。

 若者組(若者仲間、若者中(ちゅう)、若者連(れん)など)自体も、西日本と東日本とでは実態が大きく異なるようである。西日本に多い若者組の類型は、一五歳に達したすべての若者が長男・次三男を問わずに加入し、おおむね二〇歳代前半で結婚すると同時に退会するという、未婚青年によって構成されるものである。若者組の内部では、加入後二~三年の小若い衆、中堅層、若者頭(がしら)を中心とした役員層といった区分がある。小若い衆として二、三年間走り使いや雑役に従事しつつ先輩の若者からきびしく躾(しつ)けられることにより、若者組のなかで一人前となる。西日本型はまた、若者仲間が集まり寝泊まりもする寝宿(ねやど)をもっている(娘組は娘宿がある)。これにたいして、東日本に多い類型では、一五歳の加入は同じだが、一軒から一人、つまり長男のみが加入し、次男以下はまったく加入しないか、長男の退会時にかわって加入する(ただし、小人数の村などに兄弟同時加入の例も見受けられる)。また、退会年齢は結婚とはあまり関係がなく、その村その村の若者組の規定により、早くて二十七、八歳ぐらいから四十数歳までとさまざまである。恒常的な寝宿をもつ例はきわめてまれで、市域では見あたらない。

 若者組のはたす機能には、東西共通の内容がみられる。一般に、①村の神事祭礼の推進、②それとかかわって獅子舞(ししまい)、盆踊り、歌舞伎、相撲(すもう)等々の祭礼興行の実行、③村の消防、水防、警備、災害救助などの仕事、④村の青年男女の婚姻へのなんらかの関与、⑤組内の教育と仲間はずしをふくむ制裁、⑥娯楽その他、などと分類される活動を展開する(以上、『若者制度の研究』・『青年集団史研究序説』ほか)。

 若者組がいつから始まったかは不明であるが、西日本では中世後期以来、村落社会のしくみに若者仲間をはじめ年齢階梯(かいてい)制が一貫していると指摘されている。同じ年齢層における横の関係が村を形づくる基本にあり、その意味では平等性が保たれた社会構成である。寝宿慣行などの習俗からも、若者組は近世以前にその原型がすでに存在していたとみられている。これにたいして、東日本の村落社会では、中世末から近世前期にわたって同族団組織、つまり本・分家関係における上下序列が決定的な重みをもっており、同年齢どうしの横のつながりは希薄であったと想定される。本・分家関係の締めつけがゆるんでくるのは、小百姓の自立がすすみ、数を増した本百姓が村落共同体としてのまとまりを強める近世中期以降のことと思われる。同族団の枠組をこえた横の年齢集団がつくられて活動するようになってくるのは、このころ以後のことであろう。少なくとも信州あるいは長野市域で、若者組のことが文書にあらわれるようになるのは、一八世紀の近世中期以降、とくには一八世紀末から一九世紀にかけての近世後期にいたってのことである。