最初に、領主法令によって、若者組がいつ、どのように規制されたかをみよう。規制がおこなわれるということは、若者組の結成と活動が目だつようになってきたことを意味する。
領主規制は、村々における祭礼興行や遊芸の肥大化にたいする制限あるいは禁止から始まる。幕府の寛政改革の最中の寛政八年(一七九六)十月、幕府領中野代官所は一〇ヵ条の申し渡しを出した(中野市 小林よしえ蔵)。村役人の一年番交替制が広がり、村役人の統率力が失墜(しっつい)して小百姓が服従しなくなっているような村落秩序の乱脈ぶりを非難する申し渡しであるが、その一ヵ条でこう述べている(読みくだしにあらためる。以下同じ)。「村方鎮守神事祭礼などの節、百姓に似合わざる狂言等相催し候儀は、宜(よろ)しからざることにつき急度(きっと)相止め、百姓相応の神事祭礼をいたすべきむね申し渡しおき候ところ、心得違いの村方もこれあり、以てのほか不埒(ふらち)なることに候、(中略)若輩(じゃくはい)のものどもへその訳会得(えとく)致し候様申し聞かせ、百姓相応の神事祭礼は然るべく候、もし相背くにおいては、頭取(とうどり)はもちろん、村役人・五人組のものども急度咎(とが)申し付くべく候」。ここで狂言といっているのは歌舞伎芝居のことである。
寛政十年十月の中野代官の全八ヵ条の申し渡しでは、「古来のしきたりにない新規ならびに臨時の祭礼の企てを厳禁する。かつ年若のものども心得違い、平日遊興を心懸け、風紀を乱し、農業疎(おろそ)かにいたす不束(ふつつか)のものこれなき様」と、若者の新規・臨時祭礼と平日遊興を禁じている(中野市立図書館蔵)。
中野代官所領に出されたこれらの禁令とほぼ同趣意で、幕府は寛政十一年六月、全国の御料(幕府領)・御預り所・私領・寺社領に、「神事祭礼・虫送り・風祭りなどと称し、遊芸・歌舞伎・浄瑠璃(じょうるり)・踊りの類、惣(そう)じて芝居同様の人集めを堅く制禁」した触れを出した。別に相撲(すもう)興行も禁じられる。このころ、信州の諸私領でも、遊芸・祭礼興行の肥大化を取り締まる領内触れを出している。寛政改革のなかで出されたこの種の禁令は、以後幕府の文政改革、天保改革などのさいにも、より強めながら繰りかえされ、諸私領でも再三触れられる。
ところで、領主の目に奢侈(しゃし)・不埒とうつるような神事祭礼興行として、歌舞伎・獅子舞(ししまい)・浄瑠璃(人形芝居)・踊り・相撲等々を継続・復活・新設・拡大して熱中したのは、あとで事例をみるように、村々の若者組にほかならなかった。若者組がもくろみ、村役人を突きあげて実現にもちこみ、盛大に人集めをして興行するものであった。領主役所もこのことを承知していたことは、右の中野代官所触れで若者の所業にふれていることにもうかがえる。したがって、祭礼・遊芸の制禁はいきおい若者組の制禁におもむく。
若者組にたいする松代藩など諸領の取り締まり令は、明和・安永年間(一七六四~八一)からあらわれはじめるが、領主役所が祭礼・遊芸の肥大と若者組の活躍とをはっきり結びつけてとらえるようになったのは、やはり寛政年間(一七八九~一八〇一)からのようである。須坂藩は寛政二年八月、いたるところで乱れてきつつある支配秩序・村落秩序の引き締めを求めて、全三一ヵ条の詳細きわまる領内法度を出した。そのなかで、「祭礼そのほかで先規にない大神楽(だいかぐら)、獅子舞、狂言踊り・草角力(くさずもう)をする村方があるのは不埒」ときめつけ、若者組の祭礼興行を禁じて「前々からおこなってきた須坂町方の御神事でも一五歳以下の子供踊りのみに限り、それも当日一日限り。まして村方では禁止」とした。同じ箇条のなかで、「若者どもが手間暇(てまひま)をつぶし、寝る間も惜しんで稽古して上演しても、平生馴れないことゆえ不拍子(ふびょうし)たらだらの始末となり、かえって見物人の嘲(あざけ)りをうけ、また遠近から人が集まり喧嘩口論も計りがたい。いずれにしろ無益のこと」と断じている(『県史』⑧一二二)。
旗本塩崎知行所では文化六年(一八〇九)六月、若者等取り締まり触れを出し、三役人と判頭(本百姓)連判の請書を村々からとりたてた(『堀内家文書』県立歴史館寄託)。「近年村方組々若者ども風俗別して宜(よろ)しからず、第一髪形(かみがた)など百姓に似合わざる風儀致し、右に準じ手道具などまでも身分不相応の品相用い、外出の節など着用物等別して目立ち候もこれあり、長き脇差(わきざし)などを帯(たい)し、物毎(ものごと)がさつがましく相見え、口論を好み候様なる族(やから)もこれあり、若者はもちろん、中年(ちゅうねん)のもののうちにも右躰(てい)の族もこれある趣粗(あらあら)相聞え、はなはだ不埒至極(ふらちしごく)に候」とし、ひいては喧嘩口論や博奕(ばくち)におよぶと難じている。若者仲間ばかりでなく、若者組を卒業した「中年のものなどは若者どもへ異見をもいたすべき年齢にて不身持(ふみもち)の族もこれあり候哉(や)、別して不届至極に候」とも記し、こうした若者仲間および中年層の乱れた風儀を三役人と判頭・重立(おもだち)らの責任で「朝暮教戒」、「教訓」するよう求める。そして、「不時(ふじ)に手附(てつけ)のもの昼夜となく廻村いたさせ」、不埒のやからは召し捕ると警告している。
こうした制禁令をさらに強めようとすれば、若者組そのものにたいする禁止・解散令にいたる。須坂藩では寛政二年五月、先にみた同年の領内法度と一連のものとして全一一ヵ条の領内申し渡しを出したが、そのなかに若者組を禁止したつぎの箇条がふくまれていた。「村によって若者頭というものを立て、十五、六歳より中年までのものを仲間とし、善悪とも何事によらず申し合わせごとに背かないむね、爪印(つめいん)の証文を頭分のものへとりおき、指図・申し合わせをするむね耳に入る。右躰(みぎてい)のことは決して善いことはない。たとえ他領でそうしたことがあっても、御領内村方において右躰のことは以てのほか不届きの至りである。以来、村役人が止めても聞かず、若者どもが組を立て若者頭などと申す儀があれば、村役人のうちだれなりとも密(ひそ)かに内意を上申せよ」(須坂市野辺共有)。若者頭を推戴(すいたい)し、爪印をおした連判書をつくるような若者組の結盟を禁止したのである。
幕府領では、関東を中心とした文政改革の一環として文政十年(一八二七)、全四〇ヵ条の組合村々議定書がつくられた。そのなかで、村ないし村役人として、若者どもの歌舞伎・手踊り・操り(人形芝居)・相撲などの興行を差しとめ、神事祭礼を若者どもに任せることをやめ、婚礼祝儀へ若者どもが押しかけ大酒するのを禁じさせるといった諸箇条につづいて、こうのべる。「一躰(いったい)若者仲間と申し号す儀、はなはだ以て宜(よろ)しからず候、(中略)これにより若者仲間と号し候ことは已来急度(いらいきっと)相止め、万一これまでの通りに候わば、重立(おもだ)ち候ものはもちろん、そのほか名前相糺(あいただ)し密々申し上ぐべく候こと」。この関東文政改革の趣意をうけた若者組制禁令は、信州の各代官所からも出されている。
こうした若者組禁止令は、ややくだって信州の諸私領でも出される。たとえば、松本藩は天保十三年(一八四二)「村方若者仲間と唱え、党を結び候儀堅く無用のこと」とし、上田藩では安政三年(一八五六)に若者組の結成を禁じた。ただし、松代藩では明確な若者組禁止令は出さなかったらしい。
このように、若者組による神事祭礼の肥大化、そこから広がる平日の遊芸化が、たとえば村方出費の増大、あるいは農業の懈怠(けたい)や潰れ百姓の続出をもたらし、総じて村落秩序の乱脈化をよびおこす大きな要因とみなされるにいたり、ついには若者組そのものの禁止・解散令におよんでいるのである。
領主令はこうして若者組の禁止にいたるが、しかし、村々は若者組にたいして禁止・解散を求めなかった。領主役所が禁止令を出した須坂領では、その後も領内村々に若者組が存在して活動している(『須坂市史』ほか)。幕府領の村々でも、文政改革の禁止令以降においても引きつづき若者組が活躍している(『戸倉町誌』ほか)。
領主令とは明らかに異なって、村あるいは村役人の若者組規制がその禁止に向かう例はきわめてまれであった。むしろ村々の大部分は、若者組の存在を当然のこととして、かれらに若者組議定書をつくらせ、若者惣代をはじめとする組織を明確に立てさせ、秩序ある活動を期待する。それは、神事祭礼や防災・警護等々、すでに村の運営にとって若者組の存在が欠かせない実情にあることに加えて、村役人・五人組・親の手にあまるような若者の所業の抑制は、若者組がもつそれなりにきびしい自制自律の機能によってこそ実現しうることを熟知しているからにほかなるまい。村役人といい、五人組の組親といい、自身がかつては若者組で活躍した人びとなのである。領主役所も、このような村々の実態を無視した強行はできなかった。