現市域の多くの村々で、一八世紀末から一九世紀へと、若者組の議定書がつくられた。現存している若者組定書(さだめがき)の頻度数からいうと、信州全体のなかで北信濃にもっとも多く、北信濃のなかでは市域の村々に多いといってよい。史料の残りかたにも左右されることではあるが、おおづかみにいって、若者組の結成と活動が市域の村々で目立って活発であったことを反映しているとみてまちがいないであろう。
手はじめに、幕府領の水内郡赤沼村(長沼)で天保五年(一八三四)につくられた若者組定書(赤沼共有)をみてみよう。赤沼村は上組・下組に分かれて村役人を立て、若者組もそれぞれにつくられていた。これは下組のものである。この定書は村役人に差しだしたものではなく、若者組の自発的とりきめであった。全一三ヵ条と末文とからなる。各箇条の内容はあらましつぎのようである。
① 近来若者の取り締まり方がよろしくないので、このたび兄若者衆中まで一同相談のうえ、左の取り決めをおこなう。
② 若者組は一六歳より二八歳までとし、独身のものは三〇歳まで、兄若者は三五歳までつとめることとする。
③ 婿(むこ)養子で村入りしたものは、幼年のものなら右の規定どおり、年過ぎたるものは三ヵ年つとめること。
④ 御役所からたびたび御制禁のお触れを破り、博奕・賭の諸勝負をしたり無宿などと付きあうなど、組一統の面目をけがすようなことをしない。
⑤ 隣村の角力(すもう)・狂言など人寄せの席で、多勢の権威をたのんで理不尽をいいつのり、若者一同を喧嘩・打ち合いにまきこみ双方に怪我人が出たようなとき、御検使出役(しゅつやく)の経費、内済(ないさい)にかかった雑用などは、発頭人(ほっとうにん)を穿鑿(せんさく)し、わかったならばそのもの一人の負担とすることをとりきめておく。
⑥ 組々において世話人・後見を一人ずつ定める。そのものから諸事を触れだしたときは、仮病とか他行などと偽りを申さず罷(まか)りでること(この「組々」は下組のなかの小字的な組で四組ある)。
⑦ 当組・他組の若者はもちろん、下男・下女にいたるまでおおぜいを誘いだし、若者に似合わない不法を働いたり主人方の耕作に差しつかえたりしないよう相慎むべきこと。
⑧ 世話人が村役人に申しでて願い遊び日にしながら、その日に私欲の働きをするものがいたなら、早速世話人へ届けでるべきこと。
⑨ 店々で長酒遊びをし、夜中に無差別に野荒らしするものがいたなら、世話人・後見へ急度(きっと)差しだすべきこと。
⑩ 定例の獅子稽古は八月六日に始める。その節は残らず罷りでること。よんどころない用事があるなら、世話人・後見方へ事前に届けでること。
⑪ 祭礼などの諸道具は、組ごとにその最寄りに預け、一統心付けて紛失しないようにする。
⑫ 両組合同の寄り合いではもちろん、当組寄り合いの席において思慮なくみだりに見苦しい挨拶(あいさつ)(発言)をせず、礼儀を正すべきこと。
⑬ 神社祭りの節は、両組御役元へ届け、ならびに上組若者組へ届けおき、諸事につき我意強情を申しつのらず神妙にいたし、経費割合などを公平におこなうこと。
以上の箇条書きのあとの末文では、「右箇条の趣一同申し合せ候上は、急度相慎み申すべく候、万一心得違いにて用いざるものこれあり候わば、世話人・後見相談のうえ、そのもの儀は若者附合(つきあい)など相除き申すべく候、何事も世話人・後見は万端正路に取り計らい申すべく候、後念のため一札一同連印仕り候、仍(よっ)て件(くだん)の如し」としめくくる。このあとに、下組内の四組から一人ずつ選ばれた後見四人、世話人四人、選び方はわからないが取締方二人、そして若者二二人が名前を書き、後見以外のものが連判している。連判といっても当然爪印(つめいん)である。
この赤沼村若者組定書の箇条は、まとめれば、(1)若者組の構成、(2)若者組の運営、(3)慎むべき不行跡事項に分けられよう。(1)の若者組の構成は、加入年齢が一六歳から二八歳まで、ただし二八歳でなお独身の場合には三〇歳までであった。どの村でも他村からの入り婿は別途に規定されるが、この組では若いときからの入り婿なら二八歳まで、二八歳すぎての入り婿の場合は三ヵ年加入を義務づけられた。若者組の機能のなかには村への奉仕活動がふくまれており、他村からきた婿養子にはその奉仕義務をはたすことが求められるわけである。若者組退会者を「兄若者」として組織し、三五歳まで加入するとしているのは特徴的な規定である。若者組の役員は、「後見」「世話人」、それに本文にはないが連判にある「取締方」の三役がおかれる。このうち後見は名称どおり後見役であろう。その役目と、連名に爪印していないところから、これは兄若者から選ばれるにちがいない。
(2)若者組の運営に関しては、世話人・後見が触れだす寄り合いにはかならず出席すること、寄り合いの席上無思慮な言動をせず礼儀正しくすること、秋祭り獅子舞の稽古に無断で欠席しないこと、祭礼用などの諸道具の管理、などの参加規律が規定される。そして罰則として、定書違反行為にたいしては除名処分とすること、喧嘩口論をまねいた張本人は解決に要した全経費を負担すること、などがある。
(3)慎むべき不行跡として箇条書きされるのは、博奕・賭、無宿ものとのつきあい、隣村の催しへ出かけたときの酒狂による喧嘩口論、大勢誘いだし連れだっての不法行為、それによる農作業への悪影響、村の遊び日と決まった日に働く違反行為、飲み屋での長酒、野荒らし、若者組寄り合いでの不作法、祭礼のさいの我意強情、などである。
右のような若者組取り締まり条項は、どの村の定書でも出てくるが、幕末期に目だって増すものに遊女狂いの禁止がある。たとえば万延元年(一八六〇)十二月、水内郡南長池村(古牧)の若者組は、慎み守るべき規定書をつくり若者惣代六人をはじめ六七人が爪印連判した(南長池共有)。その順守条項の筆頭にもっとも詳細に書かれているのは、「近ごろ須坂町に糸引女と唱えて立てられた遊女屋」と権堂村の遊女屋で遊興し金銭を遣い捨てることの禁止であった。その違反者は罰として籾(もみ)一俵、その組の若者惣代も籾一俵を村役場へ差しだすと定め、他の条項ともども悪質な違反者は仲間はずしに処したうえ過料銭三貫文をとりたてることもきめた。
若者組定書には、いわば基本法と、そのときどきに村役人の取り締まり要求や組内部の必要からとりきめる特定事項についての規定とがある。右の赤沼村の定書のような例は基本法に相当し、いったん定められると必要な修正を加えつつ長く受けつがれる。千田村(芹田)の若者組にもこのような基本法があったが、文化十三年(一八一六)若者仲間が不行跡をしでかし村役人に厄介をかけたことから、「前々より預りきたり候若者取り締まり連印書、このたび御取り上げの姿」となった。村の中組・下組・母袋(もたい)組・上組の各若者組惣代は、村役人に爪印連判願書を差しだし、「なにとぞ御勘弁を以て右書面御下げ成し下され候様」と嘆願している(千田連絡会文書)。基本法を失うことは若者組の存廃にかかわる大事であった。
基本法的定書には、若者組の構成に関する規定がふくまれる。そのことを中心にいくつかの事例をみよう。
松代紙屋町では、若者仲間の世話番などが乱れ町の御祭礼にも差しつかえが生じたことを契機に、町役人が介入して若者組の構成を新たにとりきめさせた。文政十三年(天保元年、一八三〇)八月、若者仲間は相談して評決し、以来は月ごとに交替する月世話番のうえに「大若者世話方」四人を立てることとした。あわせて、若者仲間加入は一五歳から三八歳まで、このうち一五歳から二〇歳までの若輩は月世話番から除き年長者が責任をもつことを定めた。翌天保二年正月には、つぎのような追加規定をきめた。①婿養子は年長のものでも三ヵ年若者仲間に入り、世話番などからは除く。②初寄り合いは毎年正月二十日を定日とする。③諸事連絡が不通にならないよう月世話番から最寄り順に順達する。④寄り合いのさい高声で主張せず相談をする。⑤月世話番は毎月朔日(ついたち)に申し送りをする。⑥いずこの祭礼に出向いても喧嘩口論を慎み、みだりなことはしない(『県史』⑦七三九)。
嘉永二年(一八四九)正月、水内郡石渡(いしわた)村(朝陽)の若者仲間は、「当所産神(うぶがみ)前へ誓文(せいもん)の上」一二ヵ条の規定書をとりきめた(石渡共有)。若者仲間は神社祭礼をつかさどる「明神講」でもある。若者仲間への加入は一五歳から三一歳まで、退会者の「上若衆」は三二歳から四〇歳までである。上若衆はいわゆる中老組で、若者組の後見人グループであろう。さらに「組合取持」は四五歳までとする。よくわからないが、村役人との仲介役であろうか。若者組の役員として行司(四人)をおき、これは年々正月十五日夜の初明神講で一統相談のうえ「手柄相応の人を見立てて」きめる。若者組の年中出費はなるべく倹約し、夫銭割合をきめたなら早速行司方へ納入するとしている。
そのほかの条項には、祭礼のさい行司の指図にしたがって働くこと、喧嘩口論を慎むこと、不作法の禁止、博奕・賭・大酒禁止、若者寄り合いには酒を用いず万端質素のこと、神社仏閣参詣の節は早朝に出立し、夕七ッ時(午後四時ごろ)かぎり帰宅のこと、飲食・色欲等をめぐり意趣遺恨(いしゅいこん)なきこと、明神講の無断欠席厳禁、などがある。また、前栽(ぜんさい)・ずもく(果樹)の野荒らしには、過料銭三貫文・酒一斗を仲間へ出し、見つけたものへも同額を出すと規定している。
更級郡上氷鉋村(川中島町)の若者組は嘉永七年(安政元年、一八五四)八月、村役人の不行跡取り締まりの要求をうけて、規定書一二ヵ条を定め、若者一〇〇人、世話人四人の爪印と若者取り締まり二人の奥印を連判して村役人へ差しだした(上氷鉋共有)。改革して従来の規定書にかえるもので、主な箇条はつぎのようである。
①鎮守両社秋祭りの花火・神楽・角力は、先規のとおり村役人へ伺いその指図にしたがう。②風祭りそのほか鎮守へ献灯のさい、前後争いがおこらぬよう、以来は組々がくじ引きをして番付順を定める。③組々の小社祭りに花火・神楽などをするときは、そのつど村役人へ伺い指図にしたがう。④今度若者取り締まり両人をもうけたからには、以来若者一統の願いはすべて取り締まり人を以て申し立てる。⑤他村から軍談・手踊りなどの招待状がきたときは、若者頭・年行司が相談し、取り締まり人へ申しでてその指図にしたがう。⑥若者どもが全員多人数で寄り合っても意見が区々(まちまち)で申し争いにもなるので、以来は各組々の若者頭・年行司が相談し取り締まり人へ申しだす。⑦若者加入は、親が亡くなって表名前(おもてなまえ)(戸主)になったときは一五歳から三二歳までにかぎる。⑧親懸かりの若者はこれまで何歳までと制限がなかったが、それでは老年の父母の養育にも差しつかえるので、以来は四〇歳かぎりとする。⑨中年で婿養子にきたものも四〇歳かぎりとし、養父が死失した場合は三二歳まで、三〇歳過ぎての婿養子は三五歳までとする。⑩表名前の若者が、親懸かりの若者並みに寄り合い、見物などに出ていては、自然農業も怠り家務にも差しつかえる。以来はよんどころない寄り合いなどは格別だが、そのほかは出席してはならない。かといって若者組から除くのはよくないので、祭りの割合銭は若者並みに差しだすこと。
村役人の意向をいれて改革されたのは、組々の祭礼華美争いの抑制もあるが、とくに組織上、従来の若者頭・年行司の上に中年層から選ばれる若者取り締まり人二人をおいたこと、そして若者組の年齢制限をケースごとに明確に定めたことである。何歳になっても若者仲間に加わっていて祭礼・遊芸のたぐいにうつつを抜かしているさまに、村役人らがたまりかねて介入し作成させた定書といえよう。若者組はしばしば村役人に反抗もするが、しかし、基本的には村落共同体の内部に位置づく村の組織であり、村役人から理にかなった指導をうければこれにしたがう性格をもっている。
なお、若者組には年々受けつがれていく財産があった。運営資金は村から各行事に補助金が出るが、それだけではとうてい足りないので、仲間が行事のつど、あるいは年の暮れに平等に割りあてて出しあうのが通例だが、なかには種々の名目で半恒常的な基金をもち、その利子金を活用するところもあった。どの村の若者組でも引きつがれるのは、諸記録の帳面類と祭礼その他に用いる道具類である。水内郡北高田村川端組(古牧)の若者中も積立金があって利貸ししているが、嘉永五年二月、表29のような財産を引きついでいる(北高田 天神社蔵)。