若者組の活動

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若者組の活動の中心をなすのは、みてきたような領主規制令や若者組定書からもうかがえるように、産土神(うぶすながみ)(鎮守)をはじめとする村の神仏祭礼のさいの遊芸興行である。市域の村々の場合、多くみられるのは獅子舞(ししまい)・大神楽(だいかぐら)・相撲(すもう)・花火・灯籠(とうろう)・幟(のぼり)などであり、歌舞伎・浄瑠璃(じょうるり)の芝居もある。いずれも、ほんらいは神に奉納するものであったが、近世後期に盛大になりまさるのは、大勢の見物客を集めて人間相手に賑々(にぎにぎ)しく華やかにおこなわれる娯楽遊芸としてであったといってよい。

 一例として相撲をみると、相撲興行は江戸相撲隆盛の影響をうけ、若者仲間が力くらべをする草相撲の域をぬけて本格化した。江戸相撲には、小県郡大石村(東部町)出身の不世出の大関雷電為右衛門(らいでんためえもん)がおり、巡回興行に当地へもおとずれた。水内郡三才村(若槻)から木曽川伝吉(のち五代目廿山(はたちやま))、埴科郡東寺尾村(松代町)から君ヶ嶽(きみがたけ)助三郎が出ている。これらの伝手(つて)もあって、正規に四本柱土俵免許をうけるところが増した。天保十五年(弘化元年、一八四四)、千田村(芹田)若者組は左の免許をうけた(千田連絡会文書)。

      相撲土俵免許

一信州水内郡千田村瑠璃光寺(るりこうじ)薬師如来へ、心願により永代四本柱土俵奉納致し置き候間、末々に至るまで滞りなく相撲取り立て下され候様頼み入り候、なおまた外(ほか)同職のもの罷(まか)り越し候ても、右四本柱土俵へ決して差し構え致すまじきこと、念のため仍(よっ)て件(くだん)の如し、


     天保十五辰年十月

        信州水内郡千田村

             若者衆中

          取次 千田川兵助殿

                             江戸相撲年寄

                                三代目 浦風林右衛門印

                                       直政(花押)

 同じ天保十五年の八月、水内郡北徳間村(若槻)若者組も、村の八幡宮・諏訪宮両社へ年寄浦風林右衛門と廿山を継いだ剣山(つるぎやま)谷右衛門連名の「永代四本柱土俵奉納免許」を得ている(『市誌』⑬四五六)。

 四本柱土俵免許をうけるには、年寄らへの謝礼をはじめ土俵のしつらえ、年々の維持などに相当の費用を要する。文政三年(一八二〇)水内郡北尾張部村(朝陽)の若者組は、善光寺町の海老屋(えびや)三治の助力を得た。三治から、尾張神社にたいする江戸行司木村庄之助の「永世相撲辻請免許」を寄進してもらったのである。つまり、免許取得に関する経費は三治が出してくれた。三治は「稽古にことよせ農業の妨げ、遊興がましき儀にならないよう、家業に出精すること」と書きそえて寄付証書を渡している(『県史』⑦一八五八)。万延元年(一八六〇)、高井郡赤野田新田村(若穂)の若者組は、江戸相撲年寄境川浪右衛門・君ヶ嶽助三郎から村の神明宮へ永代角力奉納をうけた。これを長く維持するよう求められた若者中とその世話人は、村中へ奉加をつのり五四人から拠金を集め、これを基金としその利子で年々の相撲奉納ができるようになった(『県史』⑧二六九)。

 どの村でも若者組の祭礼興行への熱中ぶりはたいへんなものであった。嘉永七年(安政元年、一八五四)更級郡大塚村(更北青木島町)の若者組は、産土(うぶすな)諏訪神社の定例祭礼興行の演目について紛糾に紛糾をかさねた。村は東・西両組に分かれ、さらに六組からなるが、若者組が東西で対立し、村役人もまきこんで二転三転した。当初は、弘化元年に四本柱土俵免許をうけたままになっていた相撲開きを若者組が出願したが、村役人は同四年の善光寺地震で大破した拝殿修復を優先とし、相撲開きは来年にまわし従来の草相撲にとどめることになった。ところが、草相撲でも藩御出役があり出費がかさむとして賛否紛糾し、別に若者組が準備してきた「大神楽(だいかぐら)」も時間切れで中止かという瀬戸ぎわになった。ここで、たまたま村民宅へきていた非番の松代藩公事方(くじかた)同心が仲裁を買ってでて、祭礼当日の夜明けにやっと両組村役人・六組若者組世話人の「手打ち」にもちこんだ。

 こうして七月二十五日四ッ時(午前一〇時ごろ)から暮れまで、六組の出し物が延々とつづいたが、「大神楽」とは「狂言」(歌舞伎)をふくむ左のようなはなばなしいものであった。

第一番には大北組、引き舞台を道中引き流し、浜松風塩汲(はままつかぜしおくみ)の手踊りに拍子(ひょうし)もそろえ、(中略)あとにて獅子舞納め、そのうえ箱根権現十一段目仕(つかまつ)り(中略)、第二番は西村南上組、道中下(しも)の舞台を引き流し、神前にて札配り一二三と番当たりを付け、一番に手拭、二番に腰帯、三番には鬢鑑(びんかがみ)、当たり人へは右の品を遣わし(中略)、あとにて獅子舞納め、そのうえこども三人にて伊勢音頭ならびにおけさ踊り、(中略)第三番に新町(あらまち)組、道中こども二、三十人にて亜美利加(あめりか)征伐の陣立て、まっさきに大銃大八(おおづつだいはち)に載せ引きかけ、槍(やり)・籏(はた)・指物(さしもの)追い立て鑓(やり)を構え(中略)、第六番には宿組、道中大松に桜の餝(かざ)り引物引きかけ、神前舞台にて義経千本桜木の実の段仕り、あとにて獅子舞納め、そのうえ忠臣蔵五段目等仕り、(下略)

 このあと、閏(うるう)七月十四日、前年新町組が勧請(かんじょう)した秋葉宮の遷宮祝いをおこなうことに若者組が一決し、盛大なねり物・餝り物をくりだし、狂言彦山権現六段目や、「当世流行のなんだねい踊り、ならびにじんで踊り」なども上演している(『村の遊び日』)。

 ところで、若者仲間が手間暇と大金をつぎこんで上演する祭礼興行には、村の老若男女が見物に集まっただけではなかった。近隣の村々の若者組へ招待状が送られ、招きに応じて村々から若者仲間がおおぜいでやってきて「花」(祝儀)の金品や酒を出す。

 水内郡平林村(古牧)の若者組には、文政六年(一八二三)から昭和三十六年(一九六一)まで書きつがれた『平林若者連永代記録』(『長野市史料集』第二集)がある。産土神の安達(あだち)神社の六月御祭礼、七月の盆踊り、八月御神事の祭礼興行が記録の中心で、その運営基金に「若者永代不易金」を積み立てたりして、獅子舞・花火・相撲などを興行しているさまが如実に知られる。なかでも、目をみはるばかりに活発に展開されている近隣村々若者組との交流の記録は貴重である。

 たとえば文政十三年には、三月に村の産土社が京都吉田家から「安達神社」の社号を許された記念の祭礼がおこなわれたが、このとき五部市(ごぶいち)村(北高田村のうち)・東和田村・西和田村(古牧)の若者組はそれぞれ獅子舞を神前に奉納し、あわせて東和田村は酒二升、西和田村は青銅一〇疋(ぴき)を持参した。それにたいして平林村若者組から酒五升ずつを返礼した。また北条組(北高田村のうち)は門灯籠(もんどうろう)、﨤目(そりめ)村(三輪)は高張付きの幟(のぼり)一対を奉納し、御礼の酒二升ずつが渡された。六月には平林村若者組から中越(なかごえ)村(吉田)の御祭礼へ高張門灯籠を奉納している。

 天保十一年(一八四〇)八月に、安達神社屋根葺(ふ)き完成祝いの祭礼があった。このとき、平林村若者組は大花火をつくって奉納したが、他村の若者組からは五部市村・北条組・﨤目村・東和田村・西和田村の五ヵ村がそれぞれ獅子舞を奉納したほか、吉田村が手提灯、川端組(北高田村)が神前百八灯と小幟一対、中村組(同)が大高張提灯一対をそれぞれ奉納した。これへの返礼として平林村若者組からは、たとえば五部市村若者組へは当日獅子宿をつとめた太兵衛宅での酒宴へ酒五升・肴重詰二重を贈り、翌日さらに酒札(さけふだ)(酒の商品券)五升を届けるなど、丁重に返礼している(だから、祭礼には酒狂により村々若者組どうしの喧嘩口論がおきがちにもなる)。また別に、獅子宿・花火宿をつとめた家々へも御礼の酒または酒札を届けている。村役人から慰労の酒五升が出たものの、若者組のこの祭礼への出費は合計銭一六貫四四〇文にのぼった。これを若者仲間二四人に割り、一人あたり六八六文を出しあっている。

 祭礼興行のほかにも、若者組の遊芸活動は広い。栗田村(芹田)の若者組が天保十一年十二月一日から十一日まで毎晩開催した軍談興行は、その一例である(『市誌』⑬四五四)。「伊達黒白論(伊達騒動)」と「関ヶ原御陣」の軍談であった。この興行には、蝋燭(ろうそく)・砂糖・炭・紙・油代などや軍談師南江(なんこう)への謝礼と酒、会場を提供してくれた家への礼金など金一両一分三朱余がかかったが、諸方からの祝儀と若連一二人が出しあった出銭でまかなった。祝儀金銭には、村内・近隣村から聞きにきたおとなたちのほかに、近隣村若者中から寄せられたものもある。

 祭礼遊芸に熱狂したとはいえ、若者組の活動がそれで終始していたわけではない。防災・警護など村社会に貢献する仕事が多々あったし、なにより村社会を構成しうる一人前の村民へと若者を育てていく機能は大きかった。祭礼遊芸活動にしても、未熟の若者を鍛え育てあげていく教育の場でもあった。平林村の若者組は、天保七年正月の寄り合いで八ヵ条の議定書をとりきめた。そのなかには、古例のとおり一五歳で加入し三五歳の暮れに退会することなどと並んで、つぎのような規定があり、若者の成長にはたす若者組の役割を示している。

一身持ち不埒(ふらち)にて、大酒いたし候か、また色狂い、遊女通いいたし候か、なおまた御法度の博奕いたし候ものこれあり候わば、世話役ならびに熟意(懇意カ)のもの異見相加え申すべく候、万一相用いず候わば、連中相除き申すべく候、(中略)

一人生まれて七、八歳より手習いいたし、十歳ごろより算盤(そろばん)稽古いたさず候えば、生涯無筆無算と人に笑われ、自心にても甚だ恥ずかしく思い候、十五歳より身を治め、家を調(ととの)え候ことを学び申さず候えば、成人次第不埒相重(おも)り申すべく候、(中略)左候へば、親・兄弟なげきを懸け、一家・親類は迷惑いたし、組合・一村までも難渋に及び候、(下略)