地縁・血縁で結合する五人組・親類、年齢集団としての若者組(および中年組)のいずれとも異なって、村の成員あるいは村内の有志によって形づくられるものに講仲間の集団がある。
講仲間は、宗教・経済・社会上の目的を達成するためにつくられる。このうち、経済的社会的な講には、主なものに資金を融通しあう頼母子(たのもし)講・無尽(むじん)講と、商人・職人などの同業者の親睦的な講がある。頼母子講・無尽講は、貧窮者の救助とか営業資金の調達を目的として金銭を相互融通するためにつくられる。同業者の講には、たとえば大工・左官仲間の太子講、鍛冶(かじ)職のふいご講・不動明王講などがある。
ここでは、宗教的な講をみる。現存するか、または近年まであった市域の宗教的な講として、伊勢講・戸隠講・三峯(みつみね)講・秋葉(あきば)講・古峰(こみね)講・三山(さんざん)講(出羽三山)・御嶽(おんたけ)講(木曽御嶽)・稲荷(いなり)講・えびす講・念仏講・観音講・道祖神講・庚申(こうしん)講・二十三夜講・馬頭観音講など、広い地域に認められる講がある。これらのほかに、たとえば、更埴市八幡(やわた)の武水別(たけみずわけ)神社を信仰する蟇目(ひきめ)講、皆神山(みなかみやま)(松代町)にまつられている皆神神社の皆神講、東筑摩郡麻績(おみ)村にある聖(ひじり)権現の聖講、同郡坂井村にある修那羅(しょなら)へ参詣する修那羅講、長沼の西厳寺(さいごんじ)へ参詣する西厳寺講等々、比較的かぎられたところでおこなわれる地域性の濃い講がある(『市誌』⑩民俗編)。
このように数多い宗教的講のなかでも、近世後期になると、どの村にもほとんど例外なく形づくられていたのは伊勢講である。伊勢神宮からは中世以来、外宮(げくう)・内宮(ないくう)の御師(おし)がまわってきて講が組織されてきていたが、近世、とくにその後半になるといっそう組織化がすすんだ。講がつくられ、年々まわってくる御師かその手代へ御初穂の金銭を奉納するいっぽう、毎年講仲間のなかから一定の順序またはくじ引きによって伊勢へ代参し、神符その他をもち帰って講仲間に配る。その経費は仲間が積み立てるほか、しばしば伊勢講として田畑を所持し、そこからあがる小作料をこれにあてた(『市誌』④一〇章「民衆信仰の広がり」参照)。
伊勢講はこのようにもっとも代表的な講であるが、その講の構成は村落共同体(村または事実上の村落共同体単位である組や枝郷)の成員が全員参加するケースが圧倒的に多い。したがって、村の産土神社の氏子とも重なりあう。
弘化二年(一八四五)に伊勢御師麻生口(あそうぐち)六太夫久守(ひさもり)が当地へきて回村するが、そのさい前年十一月、この年正月、七月とそれを予告する廻状がまわされた。趣意は、「弘化元年六月に御師上部太夫興一が死去し、その名跡(みょうせき)を受けつぐことが認可されたので、継目(つぎめ)御披露のため回村したい」ということである。継目祝いの志納金集めである。これらの廻状は、先代御師の旦那場であった表30の村々にあてられ、またじっさいにこれらの村々をまわった。その廻状の宛書きは村の「御役元・御役人中様」で、その村に御師が定宿とする百姓がいる場合にはこれに「御宿だれだれ様」「御宿衆中」が加わる(『市誌』⑬四五七)。つまり、伊勢講は村単位に組織され、村役人がこれを対外的に代表する立場にあった。高井郡赤野田新田村(若穂)で伊勢代参の心得をきめたのも、村としての取り決めであった(『市誌』⑬四三三)。このように伊勢講の場合は、講集団といっても村そのものとイコールになることが多い。
伊勢講以外の講仲間は、村のなかの有志が集まって結衆することが多くなる。とはいえ、なかには一村、一共同体の全員加入という姿も少なくない。戸隠講は戸隠山の中院(中社)か宝光院(宝光社)を対象とし、これを水神(すいじん)様あるいは作神(さくがみ)様として信仰し毎年参詣する。代参者を送りだす場合と、近くにあるため全員で参詣する場合とがみられる。定例の参詣のほかに、干ばつのときに雨乞いのお種水をもらいに登山する(『戸隠信仰の歴史』)。この戸隠講も、水内郡広瀬村(芋井)の戸隠講は全員参加であり、更級郡東横田村(篠ノ井)では中社と宝光社とのそれぞれの講があって村民はみなそのどちらかに属した(『市誌』⑩)。同郡塩崎村の四宮・上町には「戸隠万代講」があり、ほぼ全戸で構成し、毎年一〇分の一の人数を代参者に選んで送りだす。近代には入会自由になっているが、もとは全戸加入であったとみられる(『更級埴科地方誌』③下)。いずれも講の起源は不詳ながら、近世にはすでに成立していたと推定してよいものである。水神様・作神様という性格上、戸隠講も農作業の共同性を基盤になりたつ村落共同体全体の講であることが多かったといえる。
秋葉信仰は、遠江(とおとうみ)国周智(しゅうち)郡秋葉山(静岡県周智郡春野町)から火防の神を勧請(かんじょう)してまつるものである。秋葉山頂には現在、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をまつる秋葉神社があるが、明治初年の神仏分離以前にはむしろ修験者(しゅげんじゃ)であった三尺坊大権現のほうが信仰の中心であった。市域の町村には、防火を願って秋葉神が数多く勧請されている。年次のわかるものでは、氷鉋(ひがの)八幡社(川中島町)の境内に現存する寛延四年(一七五一)の石の小祠(しょうし)がもっとも古いという。北国街道松代通りの川田宿(若穂)には、近世に勧請されて宿場の北と南の入り口に大きな石竿(いしざお)の上に秋葉さんがまつられていて、町川田の下組と上組でそれぞれ祭りを営む(『市誌』⑩)。火災はいったん発生すれば村全体に広がる恐れがあるから、秋葉さんをまつる秋葉講もほとんどが村共同体の全員加入となる。
更級郡安庭(やすにわ)村(信更町)の枝郷湧池(わくいけ)の馬頭観音講は、元禄年間(一六八八~一七〇四)から享保年間(一七一六~三六)のころの成立と伝えられている。講日が冬と夏にあって馬頭観音絵像をかかげてお祈りをし、また馬の治療や予防の相互扶助をおこなった。当初の戸数は三八軒で、ぜんぶ馬を飼育する農家であったため、集落全員が講に入った。その後、馬の飼育をやめた農家が増すにつれ、講員が漸減し、明治初年には二十七、八軒になったといわれる(『更級埴科地方誌』③下)。村の講から有志仲間の講へと移行したといえよう。
村の全員でなく、募集に応じて有志のみが加入する講ももちろん多かった。三峯講は武蔵秩父郡三峯(埼玉県秩父郡大滝村)に鎮座する三峯神社を信仰する講である。三峯神社は秩父山中に生息する狼(おおかみ)(山犬)を御眷属(ごけんぞく)とあがめるが、その御眷属が火災、盗賊、さらに諸難から守ってくれ、したがって猪鹿(しし)や害虫の駆除にも効験(こうけん)があるとして信仰されたので、百姓にも商人にも加入者があった。市域では旧更級・埴科両郡域に比較的多く祠(ほこら)が残っているといわれる。篠ノ井塩崎地区の三峯講はほぼ四〇軒で構成され、毎年くじ引きで三人ずつが代参した。経費は会費でまかない、年二回集めて積み立てておき、また代参のさい米一升ずつを集めたという。
篠ノ井塩崎にはまた、妙義山嵯峨(さが)大社中之嶽(なかのたけ)神社の甲子(きのえね)講があった。運営は三峯講と同様であったが、祭神が大黒様であるため、加入者には商家が多かったという(同前書)。
道祖神講は市域各村に多かった。文字碑や男女双体像、あるいは陰陽石などの道祖神がまつられており、ドウロクジン、サエノカミなどともよばれる。近代成立のものもあるらしいが、多くは近世にさかのぼるであろう。正月十四、十五日の小正月には火祭り(ドンドヤキ)がおこなわれるが、小正月以外の行事をもつ場合も少なくない。水内郡栗田村上組(芹田)の道祖神講は最近では二七軒で構成され、道祖神碑をまつっている家を永代講長とし、小正月のほか、五月十五日にも道祖神祭りをおこなっている。各地にこんにちまで伝わる道祖神行事はきわめて多様豊富である(『市誌』⑩)。
有志の講のなかには女性だけの講がある。埴科郡東寺尾村(松代町)の地蔵講は、村内の女性によって構成、運営される。祭り日は四月八日の灌仏会(かんぶつえ)と九月の彼岸の日で、この日、講員は米を挽(ひ)いた粉をもち寄って順番制の講宿に集まり、四月には「やしょうま」、秋には団子をつくり、村の地蔵堂の地蔵尊に供えて祭りをする。そのあと講宿で供物(くもつ)を食べ、茶を飲んで楽しむというのが近代の講内容であった。まつられている地蔵尊は岩船(いわふね)地蔵で、建立銘に寛保二年(一七四二)とある(『更級埴科地方誌』③下)。戌(いぬ)の大満水の年である。岩船地蔵はいわゆる流行(はやり)神(仏)が定着したものである。下野(しもつけ)岩船山高勝寺(栃木県下都賀(しもつが)郡岩舟町)の岩船地蔵が、享保四年(一七一九)に爆発的に流行し、武蔵(むさし)(東京都・埼玉県)・相模(さがみ)(神奈川県)・上総(かずさ)(千葉県)・駿河(するが)(静岡県)・甲斐(かい)(山梨県)・上野(こうずけ)(群馬県)などや信濃へ、村から村へと盛大に祭りつがれた。東寺尾村の岩船地蔵は、田子村(若槻)の岩船地蔵などもそうだが、この年に勧請されたものにちがいない。その後、戌の満水の犠牲者を供養するため、あらためて地蔵尊を刻んでまつったのであろう。
松代町大村には、女性の念仏講があった。順番に講宿をつとめ、毎年秋に新穀がとれると、米一升を粉に挽(ひ)きこどもを連れて講宿に集まり、もち寄った粉で団子をつくる。法然上人の絵像をまつり、招いた僧侶を中心に大数珠(おおじゅず)をまわし、鉦(かね)にあわせて念仏を唱える。終わると団子・漬物などを食べながら世間話をして楽しむ。講中に不幸があれば葬式を手伝い、穴掘りなどもおこなったという(同前書)。
いくつかの講の事例をみてきた。こうした講のなかには、葬式のときの手伝い仲間でもあるものが少なくない。また、宗教的な講が頼母子講・無尽講をあわせておこなっていることもある。つぎに、講のなかで石塔を多く残している庚申(こうしん)講をみてみよう。