庚申講

485 ~ 490

各種の講には、石造物を建立(こんりゅう)してまつっているものが多い。そうした石造物のなかで、圧倒的多数を占めるのは庚申塔である。昭和五十二年(一九七七)から網羅的調査をおこなった「郷土を知る会」の『長野市の石造文化財』(第一~第五集)によって、調査地区別・年号別に庚申塔の数量をみると、表31のとおりである。なお、同書によれば、塔の形態は、江戸前期のものに入母屋(いりもや)型・宝塔(ほうとう)型の石祠(せきし)がみられ善光寺平の特徴をなすが、江戸中期になると青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を中央に日月(じつげつ)、二鶏(にけい)、三猿(さんえん)などを彫る一般的な角柱型・光背型にかわり、つづいて単に自然石に「庚申」「庚申塔」などの字を刻む文字塔になってくるという。


表31 長野市域の庚申塔

 表31によれば、地域によって比較的多いところ少ないところという差異はみられるものの、むしろ全市域にまんべんなく分布しているというべきであろう。時期的には、近世に入ってからの年次の明らかなものを数えると、江戸前期の元禄年間(一六八八~一七〇四)までの合計が八六基、そのあと天明年間(一七八一~八九)までの中期が一六二基、それ以降慶応年間(一八六五~六八)までの後期が二五五基となる。古い時期のものほど、建立されても失われてしまった可能性が大きいことを考慮しなければならないが、それにしても近世前期から中期へ、さらに後期へと増加の一途をたどったことは指摘できると思われる。石造物をつくらない(つくれない)庚申講もありうるが、おおまかにいって、庚申塔の増加は庚申講の増加を反映するものであろう。

 これらの年次のうちとくに集中的に多いのは、庚申(かのえさる)の年である。六〇年目ごとにめぐってくる庚申(こうしん)年は、江戸時代には元和六年(一六二〇)、延宝八年(一六八〇)、元文五年(一七四〇)、寛政十二年(一八〇〇)、万延元年(一八六〇)であった。このうち元和六年にはまだ庚申塔造立の気運が始まらず、延宝八年も目だたないが、元文五年・寛政十二年・万延元年は群をぬいて多数にのぼる。

 庚申信仰は、中国の道教の三尸(さんし)信仰を母体として雑多な信仰が複合して成立した。人間の体内には三尸という三匹の虫がいて、つねに人間の犯す罪科を監視し、庚申の晩に人間が寝こんだすきに天にのぼり、天帝に六〇日間の罪科を逐一報告し、その人間は早死にする。庚申の晩に身を慎んで夜明しをすれば、報告できないため長生きする。こうした庚申信仰は平安時代前期に始まり、中世には仏教と習合し、江戸初期以降僧侶(そうりょ)や修験(しゅげん)の力で浄土真宗地帯を除いて庚申講が続々とつくられるようになる。猿田彦神(さるたひこのかみ)を本尊とする神道式庚申信仰も形成された。仏教式・修験道式・神道式のいずれにしても、庚申講仲間は六〇日ごとの庚申の晩に集まって夜明かしする(ただし、じっさいには毎月一回とか、農繁期を除いて毎月一回といった例がみられる)。庚申塔は一般に、こうした「庚申待ち」を三年間連続しておこなったさいに造立するが、六〇年目ごとの庚申の年はことに身を慎むべき年とされ、この年に建てられたものが多かった。

 庚申講にも村中総加入のところがあるが、多くは有志による十数軒から二〇軒程度のものであった。埴科郡岩野村(松代町)の寛保二年(一七四二)三月につくられた「庚申講由緒書」(『県史』⑦一八三三)は、南北朝の村上義光(よしてる)、戦国時代の村上義清とかかわらせて由緒を説く。村上遺臣の末裔(まつえい)という意識をもつ人びとの庚申講で、当初一二軒であったという。なお、元亀(げんき)三年(一五七二)に始まった庚申講であるとしているのはともかくとして、元禄年中に村の出口に四面塔を建て、元文年中(一七三六~四一)に庚申の石碑を建立したという。講中定書では、①今後怠慢なく会講(えこう)(庚申待ち)をおこない、講宿のものはありあわせの品でもてなす、②講中に婚姻、家督相続などのことがあっても祝儀等は無用、③両親・夫婦死去の節は香典として一人二四文ずつ集める、④講中に不幸があったさいは、どんなに多忙でも出かけて野送りその他に尽力する、などと定めている。祝儀ごとにはかかわらないが、葬式には助力しあう講であった。

 市域では、葬式の互助組織には隣組、庚申講仲間、本・分家、親戚とさまざまのものがあるが、庚申講仲間が現在でも中心的役割をになっているところが多いという(『市誌』⑩)。

 水内郡中越(なかごえ)村(吉田)には、慶安三年(一六五〇)の銘のある庚申塔がある(市文化財)。入母屋石祠型で、窓が三つあけられている。上部に火炎形の窓が二つ、下部に長方形の窓が一つで、長方形の窓の左右に猿が一匹ずつ彫られている。内部に一光三尊の御神体が納められている。これを所持しまつっているのは中越庚申講中であるが、中越庚申講には元禄六年(一六九三)から現代まで書きつがれてきた「庚申講中人別帳」と用具一式(あわせて市文化財)がある(『中越庚申講中人別帳』長野市史料集第二集)。人別帳は年々の講宿(当番)を記すのが目的だが、種々の時事的書きこみがあって貴重である。用具には本尊掛軸(二軸)のほか、講員一人ずつの木椀、一升ます、鐘と撞木(しゅもく)、般若心経(はんにゃしんぎょう)(一人一冊)、箸(はし)(名前入り袋に入れる)などがある。

 講仲間は江戸時代から一三人、九人、八人、七人、一一人などと変動したが、最近は一三人で、宗派は禅宗・浄土宗・真宗にまたがる。村の浄土宗蓮華(花)(れんげ)院が講の中心になっている。講宿当番は蓮花院が正月ときまっているが、あとは毎年十二月の申の日(御年越)にくじ引きをして次年度の各月の当番をきめ、人別帳に書く。十一月は大師講、十二月は御年越で、これにあたった人は名誉とした。庚申の日に講宿へ集まり、風呂に入り夕飯をいただく。そのあと庚申様の掛軸をかけ、般若心経を三回、つぎに念仏、つぎに真言を唱える。おつとめが終わってお茶の会となる。大師講のときは餅をつき、夕飯を出し、講から酒二升が出る。御年越のときには尾頭つきの魚と食事・酒二升が出る。これが近年おこなわれてきた慣行である(同前書)。

 各月の講宿当番をくじ引きできめるといっても、最初は毎月おこなわれたわけではない。正月と十一月、十二月にはかならず開くが、それ以外は、元禄七年には二月・四月・六月・八月・十月、翌八年には三月・五月・七月・八月・十月といったように異同がある。これはつまり、正月・十一月・十二月以外は六〇日目ごとの庚申の日に庚申待ちがおこなわれたのであろう。ところが、享保十七年(一七三二)には毎月、計一二回の当番がきめられ、同十八年・十九年とつづく。そのあとまた毎月開催ではなくなるが、ほぼ明和年間(一七六四~七二)からは原則として毎月開催となり、年によっては欠ける月もあるという姿に変わっている。毎月開催となれば当然に庚申の日ばかりではない。庚申の日がない月には、おそらく申の日に寄り合ったと思われる。こうした開催回数の変化は、講員の増減に対応しているらしい。しかし、ほぼ文政年間(一八一八~三〇)以降は毎月開催が常例となり、明治以降も現代まで継続されている。

 ひとくちに有志による講仲間集団といっても、結衆の結合度には濃淡強弱があり、したがって講の存続期間も長短さまざまであったが、中越庚申講中のように、明治維新や第二次世界大戦後の政治的社会的経済的激変もほとんど無傷でくぐりぬけて存続してきた講もあったのである。