旦那場と役の負担

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「部落」が負担した役は、旦那場(だんなば)(全国的には職場・草場とよぶ地方もある)と深く関係していた。文政九年(一八二六)の記録(『松代真田家文書』国立史料館蔵)をもとに、皮革・掃除・牢番・行刑の四つの役についてみていく。

 皮革役というのは、毎年定められた数量の上皮を藩へ上納するものである。旦那場内に死牛馬があったとき、この皮を加工して商品にすることができた。基本的には取得できた皮は当人の自由とされたが、皮の統制権は頭孫六がにぎっていた。「部落」のなかでは、広く旦那場をもっているものが裕福だった。なかには旦那場をまったくもたないものもいた。江戸時代の初期に孫六に命じられた皮役は、いつしか現物納ではなく代銭納に変わった。文政五年、松代領内では、馬皮は一枚金一分銭二〇〇文、牛皮は一枚金三分の相場で取り引きされていた。ただし、皮の売買にさいしては孫六への申告が義務づけられていた。松代領内の皮は武具のほかに寺社や村々の太鼓の皮として、また三味線の皮として加工されたとみられるが、その種別や量、販路については不明である。皮役が代銭納になってからは、孫六は領内の「部落」一軒につき銭一八文を拠出させ、それをまとめて藩へ上納した。

 掃除役は、江戸初期には孫六からの指令によって、松代城三の丸までの草取りや片付けなどをおこなうものであった。やがてひとり一八文ずつの銭納に変わり、その拠出金で孫六は「部落」内から人足を雇って実施する方法がとられるようになった。江戸後期には、孫六は「部落」の旦那場高と軒数とによって拠出金を算定し、七月と十二月の二度分納で負担金を徴収した。

 入牢(じゅろう)者があったときに牢屋の番をするのが牢番役である。通常は本番役といって昼夜二人でおこなったが、入牢者が多いときは加番役といって、昼夜四人に増員された。ほんらい牢番役は労役であったが、これもしだいに孫六への代銭納に変わった。孫六は配下から牢番代銭を年二回徴収した。これらのうちから、牢番に従事したものへ日当を支払った。この方法では勘定が不明朗で、配下の負担が大きいとして、安政二年(一八五五)には牢番改革がおこなわれた。本番役は昼夜三人に増員され、加番役は入牢者三〇人以上の場合にかぎられた。また、二〇歳以下と病弱のものは役から除外され、入牢者が無宿人などの場合、薬・薬鍋(なべ)・薪(たきぎ)の代金は藩から支給されるようになった。

 松代領以外の支配をうけた「部落」の牢番役をみておく。享和(きょうわ)三年(一八〇三)当時、中之条代官所の支配下にあった水内郡の「部落」では、これまで銭を支払うだけの「賃牢番」だったが、この年、直接中之条役所へ出向いて牢番をつとめる「直勤」に切り替えられた。そのため、善光寺付近の往来がはげしくなって日常の見回りに多忙であること、中之条(坂城町)まで遠距離であることを理由にこの改正に反対し、名主らもこれを支援した。文政十年(一八二七)には、中野代官所の支配をうけていた水内郡の「部落」が、牢番は順番制でなく「組合村限り御用」でつとめたいと願いでた。自分たちの旦那場内で入牢者があったときだけ牢番をつとめる簡便な方法を要求したのである(下駒沢共有)。牢番役の負担については、江戸後期に、頭支配への抵抗とあいまって、上田領・飯山領および中野代官所支配下でも改革運動が展開された。

 行刑役は、慶長年間(一五九六~一六一五)に命じられたものでなく、すこしあとになって追加されたものである。松代藩の場合、皮革・掃除・牢番の三役は郡(こおり)奉行所の管轄であったが、行刑役は町奉行所の職掌であった。財政・事務的な支配管理は郡奉行所が、捕縛・処刑などの実務は町奉行所が担当した。太刀(たち)取り(斬首)役は、当初から孫六が住む「部落」の仕事とされてきたが、やがて「三分の一助役(すけやく)」と称して、その近隣の「部落」も加えられるようになった。文政二年からは、太刀取りがあるごとに刀の研磨代として銭一貫文が藩から支給されることになった。とはいえ、太刀取り仕置(しお)きがたびたびあったわけではなく、不慣れなものが多かったので、仕置きの前日は頭孫六が研磨状況などを検査した。中野代官所支配下の「部落」では輪番制をやめて、文政年間(一八一八~三〇)ころから、特定のもの四人にかぎって執行させるようにした。

 これまでみてきた役は、旦那場の所持と深い結びつきをもっていた。たとえば松代領内と幕府領内それぞれに旦那場をもつものは、双方の役負担が義務づけられた。したがって、埴科郡坂木村(坂城町)・下戸倉村(戸倉町)、高井郡井上村(須坂市)などは、幕府領であったが、松代藩の役も負担したのである。江戸時代の後期になると、「部落」にとって貴重な財産であった旦那場は、「部落」内部で質入れや売買がおこなわれることもあった(『県史』⑦七七四)。