村や町での差別

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更級郡のある村でみられた差別のようすを年次を追ってみていくことにする。宝永三年(一七〇六)、領主に提出するために作成された村差出帳では、帳面の末尾に、「えた三人、屋敷長さ八間、横七間、除地(じょち)」と記されている(『堀内家文書』県立歴史館寄託)。村の概況を書き終えたのちに、「部落」のことを書き添えるという形式になっている。「部落」屋敷地の年貢免除は、ほかの村でもみられ、村の警備役などにたいする代償であった。享保十五年(一七三〇)には、村差出帳の末尾に、「虚無僧(こむそう)・行人(ぎょうにん)・博士・舞々(まいまい)・猿楽(さるがく)・力者猿舞(りきしゃさるまい)は一人もいない」と記したのち、「家数三軒えた、小屋一軒乞食」が書き添えられている。村に住みながらも農業に従事しないものを末尾に書きあげるという様式が定着している。さらにこの村では、判明するかぎり元文(げんぶん)三年(一七三八)から、「えた宗門改人別帳」が作成されるようになった(『小林家文書』長野市博蔵)。ほかの村びとからは切り離して、「部落」の人だけで一冊の帳面が作成されたのである。この宗門人別帳では「えた」身分の人びとは、寺の旦那ではなく「庭掃(にわはき)」という呼称になっている。宝暦十年(一七六〇)の村差出帳では、末尾に「山伏・瞽女(ごぜ)・座頭(ざとう)はなし」と記されたあとに、「えた三人、煙(隠)亡(おんぼう)・乞食なし」と書かれている。埋葬に従事する人を「隠亡」とよぶこと自体賤視語である。享保年間の記載と合わせて考えてみると、虚無僧・行人・博士・舞々・猿楽・力者猿舞・山伏・瞽女・座頭などの遊芸民・非農業民は、村びとから少なからず賤視されていたと考えられる。そのつぎに記された「えた」身分はかれらよりも賤視され、「隠亡・乞食」はさらにその下と見られていたのである。

 寛政七年(一七九五)、この村でひとつの事件がおきた。「部落」の伊三郎という男が、となり村の酒屋喜七の店先で酒を飲んで、喜七に無礼をはたらいたとして役所へ訴えられそうになった。村役人らが仲裁して訴えは取りやめとなったが、「部落」がわは約束証文を書かされた。「今後は酒屋の店先で酒は飲まない。かぶりものはもちろん、履物(はきもの)なども分相応に心がける。旦那様方に無礼をはたらかない。他所、他村でも失礼のないようにする。約束にそむいたときは、どのようなお咎(とが)めもうける」という内容であった。諸帳面での形式的な差別だけでなく、現実に露骨な差別が村のなかで強まっていたのである。

 つぎに別の村のようすをみる。宝暦十四年(明和元年、一七六四)、善光寺領内の「部落」が危機感をつのらせた。というのは松代領内の水内郡小市村など川北四五ヵ村が、善光寺市役を免除してもらい、松代領内へ新規に市(いち)を立てたいと願いでたのである。その理由をつぎのようにのべている。「善光寺領内のえたは、わがままになり往来のさまたげになっている。往来で堂々と禁制の博打(ばくち)道具を商ってもいる。足軽役人が通行中に咎めたところ、不届きにもおおぜいで乱暴・狼藉(ろうぜき)をはたらいて手傷を負わせた。領主の法をないがしろにした言語道断のしわざである」などと書きつらねている。

 四五ヵ村は、善光寺領内の「部落」の人の「横暴」として書きたて、それを口実に、なんとか松代領内で市立てができるようにしたかったのだろう。「今後は松代領内の部落のものに役をつとめさせ、一把役収納物や市役をあたえたい」と要求した。この問題がどう決着したかさだかでないが、旧来の慣行を否定するものであるから、そう簡単に認められることはなかったはずである。かりに「部落」に非があったにせよ、「部落」にたいして強力な威圧をかけたことにちがいはない。

 松代町では、町を流れる用水を「部落」の人が使ったことで問題になったことがある(『県史』⑦七二八)。「部落」の人の用水無断使用を牢屋近くの町人が町役人へ訴えでたのである。牢番のものは関屋川の流末を使うことになっていたが、文政三年(一八二〇)に牢屋が普請されてからは、町方用水を使いだした。洗い物などをすることもあるので注意したが、いっこうに聞き入れないというのである。そのうえ牢屋の付近には頭の孫六が常駐することになったため、用水使用の拒否はいっそうむずかしくなったと嘆いている。牢番(部落)のものは別の捨て水を使えば便利だろうと代案を出した。

 天保(てんぽう)五年(一八三四)、高井郡のある「部落」では、村役人から「牢番をつとめるわけをどのように承知しているか」と問われた。「部落」では、年寄りから聞いている話として、「お百姓様方は年貢を納めているが、畑地のない自分たちはその代わりに牢番をするのだ」と返答書に記した。加えて、「お民家様のところへ悪人が来たときにその取り押さえなどをしているから、旦那様方から籾を頂戴している」とも書き添えている(『県史』⑧二〇一)。村びとにたいしては、「お百姓様方」・「お民家様」あるいは「旦那様方」といった敬語を用いている。こうした表現からも、差別が強まっていったことをはっきりと見てとることができる。

 賤視されたのは「えた」身分だけではなかった。「ひにん」身分もそうであった。安政四年(一八五七)のことである。善光寺本堂裏の堤(池)で、四〇歳くらいの男の死体が見つかった。土手に引き上げて寺領役人が見分したあと、村役人が立ち会いで無縁堂の墓地へ埋葬することになった。村役人は古い俵(たわら)一枚と縄二把、棒一本を買い求めて「ひにん」たちに渡し、無縁堂へ運ばせた。安政七年には、同じ堤でまた変死人が見つかった。こんどは善光寺町内のものと身元が判明した。こうした場合はその町で責任をもって処理した。善光寺周辺の身元不明の変死体は「ひにん」が片付けるようになっていた。