江戸時代のなかばをすぎると、身分規制が揺らぎはじめ、「部落」の人びとの規制を破る動きも目立つようになりはじめた。幕府や藩は身分制度を堅持しようとして、「部落」の人たちを押さえこむ身分規制の法度(はっと)を出すようになった。早くも元文三年(一七三八)には岩村田藩で、延享五年(一七四八)には坂木代官所で触れを出している。安永七年(一七七八)、幕府は「近ごろのえた・ひにんは百姓・町人にまぎれて、法外なおこないが目に付くようになってきた」として、はじめて取り締まり令を出した(『御触書天明集成』)。盗賊や悪党どもに宿を提供したり、盗みものの世話をするなど法外の働きをするものがいたなら厳科に処すとした。この法は幕府領だけでなく、藩領でも徹底するようにと通達したため、幕府代官所はもちろん、松代藩などでも領内へ幕府の触れを流している。
松代藩は文化十二年(一八一五)にはじめて、独自に「部落」にたいする取り締まり令を出した(『松代町史』上)。冒頭で、「これは幕府が安永七年に出した法令が根本になっている」と明言して、布達に威厳をもたせている。内容は、①百姓と見分けがつくように、晴雨にかかわらず着物の裾(すそ)をはしょり、草鞋(わらじ)を履くこと、②芝居や相撲など興行物があるときは、見物はもちろん、小屋のなかへ入ってもいけない、③百姓の家へ行ったときは土間に座り、握り飯をもらって食べること、④煙草(たばこ)の火は投げてもらってつけることなど、八ヵ条の身分規制令だった。百姓・町人とは身なりを区別させ、仲間から排除して、同火・同器をきらう禁忌の気持ちを盛りこんでいる。村役人をとおして村々へ周知徹底させるとともに、頭の孫六にも「手下どもへよくよく申し付けよ」と厳命した。
松代藩では安永七年の幕府法をうけて、文化十二年に藩法を触れだしたものの、なかなか徹底できなかったようである。その一例として天保五年(一八三四)の事件がある。この年に松代領内の「えた頭」孫六が、水内郡笹平村(七二会)の地内で、いわれなく百姓と水主(かこ)(水夫)を縛(しば)ったことがあった。これがたいへん不届きであるとして、孫六は「えた頭」を罷免されたうえ、一年あまりの入牢を申しつけられた。かかわりあいの「部落」にもそれぞれ咎めが申しつけられた。この事件の翌年、藩は文化十二年に触れだした内容を再度示し、「えた・ひにん・らい(癩)小屋まで、あらためて申し渡す」と領内村々へ通達した(赤野田区有)。
松代藩は天保十二年に、新たに一二ヵ条の内容を盛りこんだ布達を出した(『松代町史』上)。これは「えた・ひにん口達」とされ、「えた頭」を通じて領内の「部落」へ徹底させようとしたものである。内容は文化十二年の触れのほかに、「十手(じって)の赤房と黒紐(ひも)は頭の孫六だけとし、手下のものは房・紐ともに黒にする」、「提灯(ちょうちん)に描く紋は、大きさ三寸までの一つ紋とする」など、あらたな箇条を加えて身分規制をはかった。
長野市域北部の村々は中野代官所の支配をうけていたが、こちらの「部落」にたいしては、安永七年のあと天保十年に、「村役人の指図なしには百姓・町人を捕縛しない」、「着物には草履の紋を縫いつけて身分をはっきりさせる」など五ヵ条の布達がおこなわれた。これらの条目は、弘化二年(一八四五)にも支配内全域で再確認された。安政三年(一八五六)には、幕府から新たに取り締まり令が出て、「えた・ひにんがいる村では、ひとりずつ村役人宅へよんで規制を教諭せよ」と命じている。同年、この幕府法をうけて中野代官所では「郡中一統の取り極め」と称して、独自の身分規制を領内へ布達した。牢番、提灯の紋、身なり、飲食、見回りなどについてこまごまと規定し、質素倹約を前面に出しつつ、平人(へいにん)(百姓・町人)にまぎれる行為を堅く禁じた。
更級郡塩崎村など五〇〇〇石余の塩崎知行所でも、幕末期に触れが出されている。①百姓と見分けがつく身なりにせよ、②蓑(みの)を用いることとし、傘や下駄(げた)、被(かぶ)り物は禁じる、③女子は髪たぶなど出してはならず、懸け紙なども用いてはならないといったように、これまた細かな規制をしている。
須坂領内のある「部落」では、寛延三年(一七五〇)、百姓の五人組改めのときに「部落」から身分規制の証文をとった。まず、はじめに「部落」八軒が、「よそ者には一夜の宿も貸さない。もしやむをえず留めおく場合は、かならず申しでる。他人は申すにおよばず、親類のものであっても、浪人者は抱えない」ということを近所の五人組のものに誓約する。つづいて五人組百姓は、「自分たちは部落の近所であるから、誓約証文をとって油断なく吟味します」と三人の肝煎(きもいり)(名主)に誓う。それをうけた肝煎は、「この手形のとおり油断なく吟味することを誓います」と藩役人あてに奥書している。これらのことが一枚の書状に書かれているたいへんめずらしい証文である。須坂領内では幕末までこうした証文が散見されるので、この証文作成はいわば制度化してつづいたとみられる。