善光寺町や松代城下町などへの旅行や物資輸送には、千曲川と犀川の渡河は避けられなかった。両河川の渡し場は何ヵ所もあったが、いずれも日常的な警備や治安とも深い関係があって、渡し場の仕事はその職能が重要視されていた。松代領では、渡し場で船をあやつる人びとを水主(かこ)とよんでいた。幕末期には松代領内の一二ヵ村に約二〇〇軒の水主の家があった。かれらは村ごとに水主仲間を組織し惣代が仲間を代表したが、さらにその上には船頭がいて仲間を統括した。
一八世紀の末ごろ、松代藩は村役人たちへ、「宗門人別改帳の作成にあたっては水主を帳面の最後に段を下げて書くように」と命じた。これまでの百姓との入り交じり記載を改めて、一段低い身分として扱うように命じたのである。更級郡のある村の文化十一年(一八一四)と文政二年(一八一九)の切支丹宗門御改帳(小林清志家文書・石坂家文書)には、帳末に「舟渡組」と標題してその村の水主の人別がまとめて記されている。この村ではのちに、書き出しを帳面の中段からにする「段下げ記載」もおこなわれるようになった。領内いっせいではなかったものの、一八世紀末以降、人詰改帳や五人組帳などでも帳末・段下げ記載が実施されていった。
文政六年、ふとしたことから「部落」の頭であった孫六と水主仲間のあいだでもめごとがおこった(『米山一政収集文書』県立歴史館蔵)。孫六が、「水主はひにんの素性であるから自分の配下になるべきだ」と藩役所へ訴えたのである。藩では孫六の訴えを取り上げて、水主の身分調査を開始した。まず村方へ水主の扱い方について問い合わせた。埴科郡のある村では、水主はむかしから羽織や日傘を用いないこと、百姓家へ訪ねてきてもなかには入れないこと、慶事・仏事の付き合いはないこと、縁組はまったくしていないことなどを報告した。村内には水主をさげすむ意識があったのである。孫六はこうした意識を利用して自分の配下にすることをもくろんだものと考えられる。
文政八年、松代藩は「領内の水主はひにん・こじき」という裁断をくだした。ただちに水主たちは結束して、これを撤回するよう藩へ抗議した。主な趣意は、「村の渡船場のなかには、ひにん身分のものやこじきを使って働かせているところがあるが、自分たちはかれらと違って、上納金を負担している藩公認の船人である」というものであった。藩は水主の抗議をうけて、こんどは幕府領や松本藩・飯山藩など他領への問い合わせをおこなった。しばらくは孫六と藩と水主とのあいだで、身分をめぐって論戦が繰りひろげられた。
翌九年の秋、孫六の配下である高井郡の「部落」から、孫六批判の訴えがあった。孫六の日ごろの横暴を列挙したなかに、水主問題も取り上げられた。それにはつぎのように記されていた。「近年、水主と孫六の出入り中だが、水主が藩へ提出した書類は残らずただちに藩の同心が写しとって、ひそかに孫六へ手渡している。だから孫六が白州(しらす)で尋ねられても、万端の返答ができる。つまりわたしども部落のものが訴えても、これと同様に孫六にばれてしまい、けっきょくは頭に処断される」。この訴えは「部落」の意向をうけた村役人によって、内々に藩へ提出された。こうして藩の下級役人と孫六の癒着が暴露されてしまった。
この文政九年の暮れ、藩は「水主は身分の軽いものであるが、孫六の支配をうけるべき筋の身分ではない」と結論づけた。孫六の敗訴が決定したのである。ただし、帳面での帳末・段下げ記載様式はこれまでどおりとすることもあわせて通達したため、水主がわの全面勝訴にはいたらなかった。先にふれたように、松代藩は文化十二年に「部落」にたいして身分規制を布達したが、領内の身分をめぐる問題は、文化・文政期にとくに熾烈(しれつ)な様相をみせ、揺れ動いていたのである。