頭支配にたいする内紛

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松代領の孫六は、信濃では最多の「部落」を配下にもつ頭であった。孫六の史料上の初見は天正(てんしょう)十三年(一五八五)だが、それ以後幕末までの系譜についてはよくわかっていない。幕末期の記録によれば、松代領の「部落」は、軒数約三〇〇、人数はおよそ二〇〇〇人だったと推定される。松代藩の預かり支配地は、高井・水内郡に五二ヵ村あったが、そのなかに「部落」は約七〇軒あった。善光寺領内の「部落」は、弘化四年(一八四七)には、一二〇人であった(『関川千代丸収集文書』県立歴史館蔵)。これらの多くは孫六の配下であったとみられる。

 頭孫六には先にあげた藩への負担役のほかに、身分内部で任されていた仕事もあった。松代藩では、菩提寺を通じて各村役元へ提出していた「部落」の宗門人別改帳は、元文五年(一七四〇)ころから頭の孫六へ提出することが慣例となった。毎年春、領内の「部落」全員(女は七年めに一度)が孫六の家へ出向き、そこで人別改めがおこなわれた。宗門人別改帳と人詰帳はここで作成された。作成事務にあたっては、男ひとり八文、女ひとり三文の手数料を支払うことになっていた。また、このときに消費される事務用品や薪炭・飲食物などの経費は、「部落」全戸の軒別割りで拠出した。配下全員の人別を掌握していた孫六には、配下のものへの処断権も認められていた。こうしたことに一定度の「部落」の自治がうかがえる。孫六が絶大な権限をもつようになった背景には、藩の下級役人との癒着があったため、配下のものは頭には逆らえなかった。

 配下のものがはじめて孫六の横暴を批判したのは、先にもふれた文政期(一八一八~三〇)である。ただ、この時期には松代領内の「部落」が結束・連帯する形にはならず、個別に孫六への批判を村役人へ訴えたにとどまる。まだまだ孫六の統治権を動揺させるまでにはいたらなかった。孫六の統治権がいかに堅固であったかを裏づけている。その少し前の文化年間(一八〇四~一八)には、上田領や中野代官所支配下で牢番役などをめぐって頭にたいする抵抗運動があった。こちらでは「部落」の結束がみられ、いずれも頭が譲歩している。

 安政二年(一八五五)、松代領では一七ヵ村の「部落」が、個別ではあったが同時に孫六の横暴を村役人へ訴えた。この一七ヵ村とは更級郡の八ヵ村と埴科郡の九ヵ村である。孫六への批判の内容はつぎのようであった。①人詰帳作成の名目で多分の出銭を命じる。②村へ出向いてきて金子を借りるが、それを遊興費に使っている。③縁組にまで介入し、私的な縁組や他領のものとの縁組を禁じている。④これまでにない金銭や役目を押しつけてくる。慣行を無視した孫六の「新法取り計らい」を断固拒否しようとしたのである。どの「部落」の訴えも孫六の横暴を具体的に盛りこんでいる。領内に散在している「部落」が緊密に連絡を取りあったうえでの訴えであった。一七ヵ村もの「部落」がいっせいに行動を起こすという戦術は、孫六に脅威をあたえたにちがいない。

 村役人へ嘆願書を提出したのち、一七ヵ村の「部落」はさらに、「おおぜい連れ立ち」という実力行使を決行した。つまり各「部落」から人数を繰りだして、幕府領であった坂木宿(坂城町)に集結したのである。しかし、中之条代官所の役人らに制止されたため、ことはそれ以上に発展しなかった。表向きは、「孫六の非道に耐えかねた他国への逃亡」であったが、じつは幕府領への意図的なデモであった。不法とはいえ徒党を組んでの示威行為は、一定の成果を得た。というのは、この事件を契機に、松代藩はようやく孫六と配下の関係を調査しはじめた。領内五三「部落」の惣代と頭孫六・又兵衛(先代孫六)を白州へ出頭させた。村方がわからも五三ヵ村の村役人代表が出頭した。「部落」の問題がこれほど大がかりに吟味されたのは、松代藩政史上はじめてのことだった。

 藩役人は坂木宿に集結した「部落」の行為を越訴(おっそ)とみなした。しかし、「部落」がわも後悔しているからと、この件についての吟味は先送りすることにし、孫六の非道に関する件を優先審理することとした。白州では「部落」がわの訴えをひとつひとつ相手孫六に問いただしていった。藩役人の私記には、「下賤(げせん)のものどもには強情者が多く、百姓公事(くじ)などにくらべて取り扱いにくいもの」として苦悩が語られている(『真田家文書』真田宝物館蔵)。「部落」の人たちの抵抗は強く、それは藩への抵抗になりかねなかった。藩の当事者もそれを察知していたが、頭支配を背後であやつってきた藩にとって、孫六の行為をただちに否定することはできにくかったのである。


写真11 安政2年(1855)白州吟味について松代藩役人の私記
(『真田家文書』)

 藩役人が裁定にとまどっているあいだにも、またしても更級郡の別の数「部落」から、孫六とのあいだに生じている諸勘定のもつれについて訴えがあった。最終的にどのような裁断を藩がくだしたのか、残っている史料からは詳細には判明しない。ただ、この事件のあと牢番役などで改革がおこなわれ、孫六の「部落」にたいする統治権は弱まったことが知られる。これらの事件は、頭孫六を相手どっての「部落」内部の闘いのようにみえるが、じつは頭批判をてこにした、村方や藩への身分闘争であったとみることができる。幕末期は、「部落」が身分的圧迫から自立しはじめるいっぽう、「部落」の再編成と頭支配に動揺がみられた時期であった。