家の永続と家格の保持

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江戸時代の百姓は、自分の田畑や屋敷を先祖からの預かりものとして意識し、それら家産を保持して永続性を願った。そのため家産は単独相続とし、一般に長男に継承させる家制度が広く形づくられた。自分の家の永続という目的に沿ってさまざまな営みがされたが、そのひとつに家訓(かくん)の作成があった。

 貞享(じょうきょう)元年(一六八四)、更級郡大塚村(更北青木島町)の町田儀右衛門は家訓を作り、これを壁にはって、家じゅうのものが守り子孫に永く伝え、同家の繁栄が永続するよう願った(『県史』⑦六九一)。その家訓には公儀の法にそむかないことや孝行をもっぱらにすることをまず掲げ、ほかにはつぎのような内容を盛りこんでいる。①先祖祭りを怠りなくつづけ、墓所を失うことのないようにする。②衣食・家居・器財(調度品)などは分限(ぶんげん)よりも軽くし、すべてにわたって倹約して家業に励む。③親類・縁者らの災難は一門で救済する。④学問は身を助けるから励み、生死のことは天命にまかせる、などであった。このように家訓には、先祖崇拝を精神的な支えとして、倹約につとめ家業に励むことで、家を子々孫々までも永続させたいという願望がみえる。この町田家は、江戸時代をとおして村役人をつとめるなど、村の中心的な存在であることを保ちつづけた。

 寛政七年(一七九五)、更級郡岡田村(篠ノ井)の寺沢安左衛門は、「一子相伝修身録」を著した(『寺沢家文書』県立歴史館寄託)。冒頭で、「この書は当家先祖より家を相続の一子へ伝える書なり。ひと月に一度ずつ見て、自分の身に非があれば速やかに改めるべきである。なおこの書は極秘書であるから、たとえ兄弟であっても他見を許さない」と述べている。家を永続させるために、代々の当主だけが読むべき書としたのである。この書には六五もの順守条目を掲げているが、全体に貫かれている信条は、おおむね三つに要約できる。①質素倹約につとめ奢侈(しゃし)華美を嫌う。②欲を押さえて養生し、無病長命に心がける。③農業に専念しながら筆算と手習いも怠らない。これらは縁組とこどもの教育とによって、家の永続をはかる秘訣(ひけつ)であるとしている。


写真12 寛政7年(1795)寺沢安左衛門「一子相伝修身録」
(『寺沢家文書』県立歴史館寄託)

 家族の無病長命を願った寺沢安左衛門だったが、文政五年(一八二二)、長男の長蔵が三八歳の若さで他界した。孫の慶十郎はまだ一七歳の若年者であったから、安左衛門は、家の行く末を案じて身辺のものへ心願書「遺書録一通」をしたためた(『寺沢家文書』県立歴史館蔵)。そのなかで安左衛門は、「家は我が家にあらず、先祖代々の家なり、我が預かりものなり」とか、「先祖より預かり伝え候田畑・家財、相違なく子孫へ譲り候こと」としている。天保二年(一八三一)、安左衛門は遺言状を残して八〇歳で他界したが、孫慶十郎の後見人としてはじゅうぶん長生きして役目を果たした。寺沢家は安永五年(一七七六)に名字・帯刀を許され、同七年に庄屋格に昇格していたが、安左衛門はそれらの家格を保って孫の代へ引き継いだ。


写真13 文政5年(1822)寺沢安左衛門「遺書録一通」
(『寺沢家文書』県立歴史館蔵)

 町田家や寺沢家のように、名字を名乗ることを許された家は、後期になるとしだいに多くなっていった。更級郡今里村(川中島町)の坂口家は、安永六年に与左衛門が名字・帯刀を許された。同十年に与左衛門は他界したが、まもなく天明元年(一七八一)には、倅(せがれ)与左衛門が父親と同格の待遇を仰(おお)せつかった。同家では以後、公式な場でも名字を名乗った。寛政三年、同郡四ッ屋村(川中島町)の弥七は犀口(さいぐち)の堰守(せぎもり)に精勤したことから、「永(えい)帯刀御免」と賞された。弥七の死後、倅(せがれ)弥七郎も堰守の功労から「永苗字(みょうじ)御免」の賞を得た。この二代で永代名字・帯刀御免の家格にのぼりつめ、中沢姓を名乗った(『中沢家文書』長野市博蔵)。こうした家格の保持は、献金・御用金や役人との関係保持によっておこなわれるのが一般的であった。

 塩崎知行所の更級郡塩崎村北郷には、天保十年(一八三九)に賞詞格式の名前を記した記録がある(『県史』⑦一二一六)。これはだれがいつどんな格式を得たかを記したものである。「苗字・帯刀御免」という待遇を得た理由については、献金あるいは調達金、御用骨折りにつきというのが大半を占める。そのなかから二人の例をあげれば、橋詰儀作の場合、「天保年中献金につき名字・帯刀御免、安政五年長百姓役仰せつかる、安政六年調達金につき割番格になし下さる」とある。樽田(たるた)俊蔵の場合は、「嘉永七年組頭役仰せつかる、安政二年献金につき上下(かみしも)着用御免、同四年献金につき名字御免、同六年調達金につき庄屋格」といった具合であった。

 椎谷藩六川役所(小布施町)では、領分の水内郡問御所村(問御所町)の穀屋新兵衛に、つぎつぎと新たな家格を許していった。嘉永元年(一八四八)、組頭席であった新兵衛は、非常備えのため献金と籾米を供出した。それによって上下(かみしも)と名字・帯刀が許された。これ以後、新兵衛は久保田の姓を公式に名乗ることができるようになった。同四年には「心がけよろしきにつき」ということで、大庄屋格を仰せつけられ、同五年には大庄屋見習いとして、一人扶持を得た。同六年には異国船渡来について入用金一五両を献金したので、さらに一人扶持が加増された。同七年には凶作のため五〇俵の籾米を献上し、安政三年(一八五六)には江戸地震による復旧のために、六〇両を献金して大庄屋本役を仰せつかった。組頭役席だった新兵衛は、大庄屋格、大庄屋見習、大庄屋本役と出世をとげていった(『久保田家文書』県立歴史館蔵)。なお、諸領で名字・帯刀を許されるものが多かったなかで、松代藩はこうした待遇措置には慎重であった。しかし、その松代藩でも藩の支出がかさんだ幕末動乱期になると、献金とひきかえの名字・帯刀御免が増した。

 家格についての意識が高まると、家と家とを結びつける婚姻や養子縁組のさいにも、格の上下が取りざたされるようになる。先述した寺沢安左衛門が「一子相伝修身録」のなかで、「縁組するときは、わが家の分と同等くらいの人よし」と記述したのは、こうした家格を意識してのことであった。また、上層の有力百姓のあいだでは家の永続と家格の保持を意識して、家系図を作ることもおこなわれた。

 小百姓のあいだでも、江戸時代の後期には家を維持するために身分の昇格を願いでる動きが活発化した。松代藩では一軒前の本百姓である判頭(はんがしら)(頭判(かしらばん)・帳頭(ちょうがしら))の下に別家(べっけ)・相地(合地)(あいじ)・帳下(ちょうした)・地下(じげ)・借地等々の肩書きをもつ従属的な身分の百姓がいた。かれらもまた、家の繁栄を意識して身分昇格を願っていた。寛政十二年(一八〇〇)、更級郡新田川合村(芹田)の惣五郎は、帳下になった礼を、判頭につぎのようにのべている。「千万ありがたき幸せ、子孫に申し伝え、何事にもわがままを申さず、御公儀の条目を守る」(『市誌』⑬一八九)。万延元年(一八六〇)、大塚村(更北青木島町)の惣三郎も、宗門人別帳の肩書きを門屋(かどや)から帳下に直してもらって礼をのべている(『県史』⑦七七三)。安政七年、更級郡田野口村(信更町)の相地滝八は、頭判の助力を得て新たに頭判になりたいと五人組へ申しでた(『県史』⑦七七一)。頭判になるためには、「家業に出精し、組合・隣家あるいは村内との付き合いがよい人物」であることが条件だった。村内で了解が得られれば昇格できた。組合の了解を得ると、宗門人別帳で頭判昇格の付け替えがおこなわれる。頭判に昇格するために、他人から田畑を借りうけて組合にはかったものもいたほどである。身分上昇は村寄合での席次などにも影響したため、有力百姓であれ小前(こまえ)であれ、家格の保持や昇格は最大の関心事であったといえる。そのための努力は惜しまなかった。