百姓名跡を継ぐ

512 ~ 515

自分の家を確立した百姓たちは、父祖名を襲名することによって、家を社会的に表示するとともに永続性を強く期待した。これは江戸時代の前期には、とくに小百姓のあいだではほとんど意識されなかったことである。家主は一般には倅のうち長子が百姓身分と農業の家職を継ぐ。ただし、江戸時代には隠居の慣行があった。これは親が長子以外のこどもの行く末を気づかってとった方策である。こうした隠居分家の形態は、江戸前期からみられるが、後期により多くなっていく。

 文化十年(一八一三)、埴科郡東寺尾村(松代町)では村役人は惣百姓三一人の入札(いれふだ)(投票)で定めると決めた(東寺尾 酒井家文書)。入札の有資格者は「御百姓株」を所持するものにかぎられ、百姓株をもつことは直接村政にかかわることのできる条件とされた。百姓株を保持しているということは、家業・家産あるいは家格が、村共同体のなかで一定度認められていることを示す。つまり、村の正式の構成員であることの証(あか)しであった。それゆえに、百姓株を代々維持していこうとするところに、家意識がより強くはたらいた。位牌(いはい)所や墓所を子々孫々まで守り抜くことが、家を守ることであるとする意識もそこから発している。

 一般には一家の長男が跡を継ぐことがふつうであったが、男子に恵まれない場合は娘が婿を迎えた。実子に恵まれなければ養子を迎えてでも家の存続をはかろうと努力した。この場合、まずは同族団のなかから相手を見つけることがおこなわれた。婚姻や養子縁組は、家柄・経済力の釣り合いのとれた家同士でなされるのがふつうで、家の保持を優先するために、ときには血縁は二の次とされたケースもある。領主もまた、貢租や諸役負担の基盤となる百姓の家が、永続性をもち安定していることを望んだ。

 娘が婿を迎えるとき、相手方の村元から送り証文が発行される。これは男が他村から嫁を迎えるときに発行されるものと手続きは同じである。どこの家へ婿入りするのか、宗旨(しゅうし)および旦那寺(だんなでら)はどこかを明記するのがきまりであった。証文には「婿名跡(みょうせき)」であること、または「入婿縁組」であることが記された。異動によって婿が旦那寺をかえる場合には、村役元の証文とは別に、寺は離旦(りだん)証文を発行して先方の寺へ渡した。

 長男は惣領(そうりょう)とよばれた。惣領は親の跡を継いでさらに家を次代へ渡すものとされていたが、かならずしも望むようにはいかないこともあった。寛政十一年、更級郡今井村(川中島町)の留吉は判頭であったにもかかわらず、家内で相談して別家することに決めた(『堀内家文書』県立歴史館蔵)。家は弟に相続させることにしたのである。たまたま弟が幼かったために、家の家格である判頭は、しばらくは父親がつとめることになった。親が隠居分家するかわりに、弟を親元に残して兄が分家するという異例の事態である。享和元年(一八〇一)、同じ今井村の喜兵次は「拙者(せっしゃ)老衰いたし候あいだ、余命もはかりがたく候あいだ、跡(あと)々相続候よう」にと、自分の跡式(あとしき)を文書にしたためた(堀内家文書)。惣領は訳があってわずかな田畑をあたえて出家させ、跡式は次男の喜文治に譲ることにした。これは家の永続性をより強いものであらしめるためには、惣領相続の慣行よりも後継者の能力を優先した事例である。

 明和四年(一七六七)、高井郡保科村(若穂)の勘左衛門は、隠居してその家産を七左衛門に譲ることにした(『市誌』⑬一八六)。代々受けついできた屋敷・田畑・山林などの家産のうち、七左衛門への譲り分けとは別に、隠居免として自分の土地を確保している。これは、当時しばしばみられた隠居分家の事例である。勘左衛門の死後は七左衛門のこども四人のなかから、志の堅いもの一人を選んで跡を継がせ、位牌所を維持させたいとしている。この場合、勘左衛門は孫のために一家を分出したことになる。家主をしりぞいて隠居するものの、本家はこうして守られ、新たに一軒の別家が増えていった。ただし、隠居分家はのちに同族団内で本家争いの種になることもあった。

 相続をめぐってトラブルが起こることもあった。享和二年、今井村の与七が死んだあと、後家(ごけ)になった妻は自分の娘の嫁ぎ先へ引っ越して暮らすことに決めた(堀内家文書)。家屋敷は相応の養子を見つけて継がせることにした。ところが、与七の兄弟が異論をとなえた。与七の父親はかつて、相続にあたって三人の倅(せがれ)たちに田畑を均等配分した経過があった。どうしても養子を迎えるのならば、自分たち兄弟がほしいと主張したのである。村役元が仲介して、けっきょく跡式のことは村役元が預かることで決着がついた。与七の死後、たとえおちぶれたとはいえ、家は養子を迎えてでも後世に残したいとする意識が見える。位牌所や墓所を維持するためでもあったろう。

 町場に住む商家の場合はどうだったか。嘉永三年(一八五〇)、善光寺大門町の孫兵衛が死去したとき、後家のとしと娘せの、それに孫兵衛の母、この三人が遺族となった(『今井家文書』県立歴史館蔵)。家内、親戚一同が相談して跡式を決めた。その内容は、①娘のせのが成長したら婿養子を迎えて家を相続させる。②孫兵衛が残した金五〇両は年八分の利子で、民吉(同家の番頭か)に貸しつける。③老母そよの貯金一五両は無利息で民吉に預ける。④後家のとしが実父からもらった形見金三〇両は、これまで孫兵衛に預けておいたが、田地を買い入れる資金にする。民吉に一時的には預けるものの、最終的には娘のせのに跡を継がせることにした。商家の場合、家を保持することはのれんを守ることになったため、のれんへの意識が強くはたらいた。