欠落と潰れ百姓

515 ~ 518

年貢・諸役の重荷や災害・凶作などのために破産した百姓を潰(つぶ)れ百姓とよぶ。松代藩の場合、百姓の潰れは当人の申し出によったが、村役元の申し立てと藩の認可を必要とした。上田領では百姓の潰れを分散百姓とよんだ。百姓が負債を抱えたまま村から出奔した場合を欠落(かけおち)とよんだ。潰れや欠落百姓の跡地は親類・縁者に渡して年貢・諸役を納めさせるが、請け負うものがいない場合は、村役元が管理して村惣作りか小作に出した。

 寛政十二年(一八〇〇)、水内郡後町(ごちょう)村(西後町)の麻屋伊兵衛は多くの借財を抱えたまま欠落した(『県史』⑦一八九)。同村の六左衛門は、その借財を肩代わりすることになり、伊兵衛が残した田地を三〇両で他へ譲りわたした。江戸時代の後期になると、田畑の質入れがさかんになるなど貨幣経済のあおりをうけて財産を失うものがでてくる。こうなると年貢金が滞って、ついには潰れを宣言するか欠落することになる。その後始末は、五人組あるいは村方が引き受けるきまりになっていた。家屋敷や家財を入札(いれふだ)で売却し、負債を弁済したが、これらの買い手があらわれない場合は、年貢金の上納にも差しつかえるため、延納や分割上納の願い出をしなければならなかった。村役元を悩ませることが多く、そのため後期になると、村ぐるみで潰れや欠落を防ぐ動きが生まれてきた。

 寛政六年、松代領水内郡石渡(いしわた)村(朝陽)では村定めで、潰れや欠落したものの負債について、つぎのように取りきめた(『県史』⑦七〇九)。近ごろ百姓のなかに心得違いから分不相応の多額の借金をして、返済できなくなって周囲に迷惑をかけているものがいる。その対応策として、①余裕のあるものは村方へ差しだして貯えとし、借用したいものは借り過ぎのないように分相応の借金をする。これには村役元が立ちあう。②村役元が認めない内々の貸借については、村方はいっさい責任をとらない。村役元・御蔵本(くらもと)の加判のない証文での借金は、いっさい面倒をみない。石渡村では、村内のしかも一定度までの借金であることを明言した。天保七年(一八三六)、隣の南堀村(朝陽)の村定めにも潰れ・欠落人の引き負い金(借財)についての規定がある(南堀共有)。当人の田地その他を処分してもなお引き負い金がある場合には、村じゅうの高割りで償うこととする。ただし、村役人の認可なしで借金したものについては、村の救済対象から除外した。

 天保五年、松代領内の水内郡地京原(じきょうばら)村(中条村)の百姓弥平治が、村役人あてに「潰れ証文」を差しだした(『県史』⑦七四八)。弥平治が潰れに追いこまれたのはつぎのような状況からであった。弥平治はもともとさほど豊かな暮らしをしていたわけではなかった。にもかかわらず、以前に相地(あいじ)の二人が潰れになったため、やむなく弁金を負ったことがあった。このごろつづいて別の相地二人が潰れたために、これにも弁金を負った。弥平治はこれらの弁金を借り入れによってしのいできたが、その利息がかさんでついに返済の見通しがたたなくなった。田地と山林を売り払って、なんとか借財にかたをつけようとしたが、折からの天保飢饉(ききん)で買い手があらわれなかった。そのため、家屋敷や家財道具までも五人組や村役人へ差しだして、潰れを宣言せざるをえなくなった。このように、潰れは連鎖して共倒れを招いたのである。自力で更生できないと判断した場合は、村方へ破産を宣告し、管財人による救済を待つよりほかなかった。

 こうした潰れ・欠落を防止するために、領主がわも対策を講じた。寛政十二年、松代藩は名主に村人の借財の管理を義務づけることなどを盛りこんだ触れを出した(『市誌』⑬三九)。文化十一年(一八一四)、須坂藩は困窮の百姓であっても永続できるようにとの名目で、奢侈華美(しゃしかび)化を引締めるための触れを発した。質素に暮らしてこそ百姓は永続できるものと引き締めをはかった(綿内村役場文書)。同十三年に、松代藩の奉行所は村役人と頭立の心得を通達した。「身分不相応の遊興や身をくずしてついには欠落する百姓が増えている。百姓の大小にかぎらず、倅の教育に力をそそぐべきである。とくに跡を譲る機会をとらえて、村役人や親戚から跡継ぎのものへよくよく教諭せよ」としている。須坂藩、松代藩ともに村役人らを役所へ呼びだして通達しており、さらに誓約の請書(うけしょ)を各村に提出させる念の入れようであった。だが、こうした領主の対応にもかかわらず、潰れや欠落に歯止めはかからなかった。

 松代藩では潰れ百姓が村に居住することを禁じていた。そのため多くの場合、家族は別々に自他村の親類へ分散したり奉公稼ぎに出た。宗門人別帳での身分記載は、すべて預け先の親類の判下とされた。なかには百姓に立ち返るものもいたが、経済的に不安定であったからふたたび潰れにおちいることが多かった。潰れや欠落による家族離散は、当人たちにとって悲劇であったことはいうまでもないが、村の百姓たちにも重い負担がのしかかった。