女性のライフサイクル

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人の一生はいくつかの段階をへながら経過していく。家庭内でも村付きあいでも地位が低かった女性たちは、どんな一生をすごしたのか。みんなが決して一様でなかったことはいうまでもないが、誕生、手習い、奉公、結婚、労働、家事・育児などでは、共通する一面をもっていた。そのようすをかいまみることにする。

 こどもは家の相続人であるから、江戸時代も大事にされた。生まれたときにお祝いをし、一年たった誕生日にもまた祝う。女子も男子と同じように祝ってもらっていた。文久四年(一八六四)、善光寺西之門町の藤井家の娘おたかの初節句(三月三日)には、親戚や町内の知り合いなどから、雛(ひな)・押絵(おしえ)雛・手鞠(てまり)・菓子・大海老(おおえび)など、たくさんの祝儀品が届いている(『市誌』⑬四七八)。女の子の初節句だから祝い品を届けたのは女性が多く、それは女性たちの楽しみでもあった。藤井家からは菱餅(ひしもち)や白酒が配られた。これは上層の商家の例であるが、庶民もその分に応じてお祝いをした。こどもは病気にかかりやすく死亡率が高かったので、多くの愛情がそそがれたのである。

 江戸時代の後期になっても、農村部では寺子屋で学ぶ女子はわずかだった。埴科郡岩野村(松代町)の寺子屋師匠上原市太郎太の手習い子は、七年間で八二人あったが、そのうち女子は三人と少ない。更級郡塩崎村(篠ノ井)の十代田塾(そしろだじゅく)では、二〇年間で八四人の寺子がいたが、そのうち女子は四人だけであった(『県教育史』①)。女子はむしろ農作業の労働力として期待されていた。そのいっぽう、松代の城下町や善光寺町では、学ぶ女子が増えている。松代町内にはいくつもの寺子屋があったが、大勢の男子に交じって女子も学んでいた。年齢は七、八歳から十二、三歳までで、女子には『女大学』『女小学』『女今川』『百人一首』などが教材に用いられた。松代竹山町では、藩士田中佐左衛門の妻せきが、女子だけを集めた寺子屋を開いた(『県教育史』⑧)。藩主夫人の側右筆(そばゆうひつ)をつとめた経験をもつ田中せきは、文化年間(一八〇四~一八)から慶応年間(一八六五~六八)まで五〇年ほど、ひらがな文や女公用・私用文あるいは物語を教材にして学ぶ機会をあたえていた。善光寺の随行坊(ずいぎょうぼう)では、僧純乗が嘉永二年(一八四九)から明治初年まで寺子屋を開いている。嘉永二年から安政七年(一八六〇)までの寺子数一一〇人のうち、六五人が女子だった。ここで学ぶ女子の多くは商家の娘たちであったが、その数は男子をしのいでいた。

 家で育った女子のなかには、十五、六歳をすぎたころには、家の口べらしや給金稼ぎのために他家へ奉公に出るものが多かった(『県史』⑦一二〇九)。嘉永五年、更級郡今里村(川中島町)の栄助の娘さきは、一九歳で同じ村の坂口斉右衛門家へ奉公に出た(『坂口家文書』県立歴史館蔵)。他家へ奉公に出る場合はかならず証文を書いた。さきの場合、奉公の年季(契約期間)は四月から翌年二月二日まで、給金は二両と定められた。公儀の法や坂口家の作法にそむかないこと、長期間の病気になったり病死したときには、人代わりを出すか給金を返済することなどを、親の栄助と請人(うけにん)(保証人)、それにさき本人が誓約した。証文のうえではさきは約一年の奉公だが、年季は状況に応じて延長されるケースが多かった。こうした奉公は、女子にとって世間(せけん)を知ったり行儀見習いをする機会となった。しかし、事情によっては「身売り証文」で性を売らざるをえないこともあった。

 古くは延宝八年(一六八〇)、善光寺桜小路(桜枝町)の市という娘が、中山道追分宿(北佐久郡軽井沢町)の旅籠(はたご)に、年季一七年の飯盛(めしもり)女奉公に出ている(『日本の近世』⑮)。江戸時代後期、善光寺町に隣接する権堂村(権堂町)には、三〇軒ほどの水茶屋があった。ここには越後方面などから来た多くの娘たちが、身売り同然で奉公していた。嘉永年間(一八四八~五四)には、一〇代前半から三〇歳前ぐらいまでの女性約二〇〇人が働いていた(今井家文書)。彼女たちは、まれには年季明けの前に身請けされることもあったが、一〇年前後の年季を抱えて、そのあいだはいちじるしく自由を拘束された。

 結婚は家の存続を第一に考えておこなわれた。さらに後継者づくりを結婚に期待した。娘の結婚は当事者の意向よりも親の意見が尊重され、親が決定権をもった。とくに上層の家では、自分の家と同じような家格、財産をもつ家との婚姻を強く意識した。女性の結婚年齢は、奉公経験の有無によって異なった。村の地主層や富裕商家の娘たちは、奉公することが少ないために結婚年齢は低く、一〇代後半でも嫁いだ。それにたいして、貧しい家の娘たちは、一般的には数年間は奉公に出て、家へもどってから結婚したために、やや遅れて二五歳前後で結婚した。結婚はふつう仲人をたてておこなわれ、夫婦間のもめごとは仲人を介して調停した。結婚にさいしては、親類や知り合いが祝儀として銭や酒を贈った。結婚するときには、名主が「人別送り状」を作成して先方の名主に送った。これで正式に戸籍が異動したことになった。松代藩では七年めに一度(子(ね)年と午(うま)年)、村役人に「女人詰(おんなにんづめ)御改帳」を作成させて女性の人別を把握した。この制度は寛延三年(一七五〇)から文政五年(一八二二)まで実施され、それ以後は男性と同様に毎年人詰帳が作成された。

 上層の家の場合、娘の嫁入り道具はかなりの品数にのぼった。安永七年(一七七八)、更級郡石川村(篠ノ井)の南沢家では、娘おゆうの嫁入り支度を買いととのえているが、相当な金を使ったものとみられる(『県史』⑦七〇一)。箪笥(たんす)には冠婚葬祭用の式服やその他の衣装を、長持(ながもち)には布団(ふとん)や蚊帳(かや)・枕(まくら)などを、櫛(くし)箱には化粧道具と鼈甲(べっこう)の櫛と簪(かんざし)を入れた。そのほか裁縫道具や鏡台、硯箱(すずりばこ)、紋付きの提灯(ちょうちん)や傘もある。たばこ入れ・たばこ盆・煙管(きせる)などまで用意した。嫁入り道具の買いそろえは、上層民にとって家の経済力を周囲に誇る絶好の機会だったが、貧しいものにはたいへんな負担だった。とても南沢家のようなわけにはいかなかった。娘の持参金や身のまわりの道具は、のちのちまで嫁の私産とされた。婚礼では、花嫁と花嫁が持参した道具が注目の的になった。嘉永五年(一八五二)、水内郡平柴村(安茂里)の村定めでは、婚礼の見物人が家へ押しかけて品定めをしながら、悪口雑言をはくことがあったのでそれを禁じている。

 結婚すると、家事や育児などで忙しくなった。とくに農村では、女性は家の貴重な労働力として期待された。農作業は男性並みの仕事をしたし、夜も機織(はたお)りなどの作間稼ぎに精を出した。夫に先立たれて後家(ごけ)として生きた女も多かった。それでもこどもとともに家を守ろうとした。村の連判などでは、夫だれの「後家」と記されて一家の主(あるじ)として扱われた。

 教養を身につけようとする女性も多かった。安永九年(一七八〇)ごろに信州へ心学(しんがく)をもちこんだ埴科郡下戸倉村柏王(かしお)(戸倉町)の中村庄八(号習輔(しゅうすけ))は、自宅に「恭安舎(きょうあんしゃ)」という心学講舎を開設した。かれの「恭安舎社友記」と題する門人帳によれば、八八九人の女性が社友になっている(『戸倉町誌』②歴史編上)。文政十三年、江戸の心学者清水春斎が水内郡千田村(芹田)にやってきて講話をしたことがある。このとき延べ二四八人が道話を聴講したが、このうち一二八人が女性であった(『市誌』⑬四四九)。また、天保二年(一八三一)には同郡坪根村(七二会)でも、清水春斎の道話に参加した一三六人のうち三七人が女性であった(『七二会村史』)。こうした女性の心学人気は、松代藩の啓発によるものではあったが、いっぽうで、女性みずからが学びを意識する姿が浮かび上がってくる。女性はただ家に閉じこもっていたわけではなかった。村や町の祭りに参加したり、ゆとりのあるものは旅に出るなどして余暇を楽しんだ。