江戸時代、女性が結婚することを「縁付く」といい、離婚することを「離縁」あるいは「不縁・離別」といった。ひとくちに離縁といっても、さまざまなケースがあった。文政十一年、善光寺桜小路の平八は、女房と離縁することにし、つぎのような離縁状を書いた(久保田家文書)。
離縁状の事
一その方(ほう)こと、このたび離縁いたし候、
然(しか)る上は、以来何方へ縁付き候とも子細構い
これ無く候、そのため離縁状依(よ)って
件(くだん)の如し、
文政十一子年二月 平八印
久米(くめ)との
江戸時代の離縁状は、ふつう三行半で書かれることから、「三(み)くだり半」とよばれる。全国的には離縁状の初見は一七世紀末である。表題には離縁の語をふくまない「一札(いっさつ)之事」「手間(てま)状」「去(さり)状」なども使われた。離縁の権限はあくまでも夫にあったから、妻から離縁状を出すことはなかった。離縁状には離縁の事由を書かないことが多く、桜小路の平八も書いていない。どんな場合でも、突然このような離縁状を突きつけたわけではなく、夫婦間には何か離縁にいたる背景があったはずである。平八がどうして久米と離縁することになったのか。たまたまこの事例の場合、別の史料で探ることができる。ことの起こりは前の年の八月にまでさかのぼる。
平八が夜遅く外出先から帰宅すると、隣町に住む儀助が家に上がりこんでいた。平八はとっさに、自分の留守を見こんでの密通(浮気)と見抜いた。平八が町役人へ訴えたために、儀助と久米は咎(とが)めをうけることになった。事情を聞いた町役人たちは、ことを穏便(おんびん)にすませようとはからった。関係者が相談して、「女房久米、平八心底にあいかなわざる者につき、このたび離縁いたし、実家へ女子とも離縁状あい添え引き渡し」ということで決着した。密通は御法度ではあったが、田舎でも決して珍しいことではなかった。ときには女性の懐胎(かいたい)によって発覚することもあり、女性にたいする保障をめぐってもつれることがしばしばあった。双方でかわした文書がときおり残っていて、平八と久米のもその一例である。
町役人は儀助の若気のいたりと判断したし、儀助は父親や親類たちと連名で平八あてに詫(わ)び状を書いた。「ご勘弁をもってお久米をもらいうけたいと御無心を申し入れたところ、御承知くだされかたじけない。この上は、お久米と三歳の娘、それに実母の養育を引き受けたい。なお、娘が一〇歳になったらそちらへお返しします」。
平八は離縁状で「何方へ縁付き候とも構(かま)い無し」と書いて、女房の再縁を保証した。この事例では皮肉にも再縁保証がただちに効力をもった。江戸時代の離縁状は、夫が一方的に妻に突きつけるものと理解されてきたが、最近の研究では、その要素は薄いとみなされている。平八の場合、妻の密通が引き金となって、周囲関係者の協議の末、やむなく離縁することになったのである。単なる一方的な離縁とはいいがたい。手切れ金や扶助金・養育金について協議をへての内済離縁であったから、密通発覚から半年近くたって離縁状が発行されたのである。
天保四年(一八三三)、善光寺桜小路に住む万右衛門の女房みやは、離縁しようとして別の町に借家住まいして暮らしていた。女房からの離縁要求であった。ところが、まもなく別の男との密通現場を夫に押さえられてしまったために、二人のこどもを置いて欠落(逃亡)してしまった。近所や親類のものが八方探したが見つからなかった。夫は二人のこどもの養育義務を課せられたが、下の子はもらい乳が必要な乳児だった。困った万右衛門は、庄屋や組合の支援を得て町役人へ援助を懇願した。善光寺町では、とくに天保年間(一八三〇~四四)に捨て子が多かった(一節二項「町の救恤」の項)。一般には、飢饉などで食いつぎできなくなったものが、こどもを商家の軒下に置いていったと考えられる。だが、万右衛門と女房のような夫婦間の事情で捨てるものもあったのではないか。
弘化三年(一八四六)、高井郡小出村(若穂)の長次郎は五年間女房と離縁することを村役人へ届けでた。同郡東川田村(同)から婿入りした長次郎であったが、生活苦におちいったため、自分は実家へもどって働き、女房は松代町へ奉公に出ることにしたというのである。これは女房と熟談のうえの結論だった。暮らし向きに見通しがもてるまでの、期限付きの離縁だが、村役人にたいして東川田村へ通知してほしいと願いでた(『徳武家文書』県立歴史館蔵)。このように貧しくて生活していけない場合、やむなく離縁せざるをえなかったケースもあった。婚姻は家の継続を願っておこなわれたため、こどもが生まれないことが離縁理由になったケースもあった。
嘉永七年(一八五四)、善光寺門前に住む長助とぎんは離縁することになった。長助は建家を抵当に入れて、村役元から一五両を借りた。そのうちの一〇両をぎんへの手切れ金(慰謝料)にあてた。二人には倅と娘がいて、倅は夫の長助が、娘は女房のぎんが引きとって養育することにきめた。残りの五両は、倅の栄太郎の扶助金とした。娘のやすの扶助金は、家財道具を三両で処分してそれにあてた。自分の家を失った長助は、栄太郎といっしょに兄の家で厄介になることにし、女房のぎんは実母の家へもどって暮らすことになった(今井家文書)。長助が用意した一八両は、妻に一〇、倅に五、娘に三の割合で配分された。離縁する場合、離縁状一枚でことがすむわけではなかった。夫の分に応じて可能なかぎり、妻子の生活保障金・養育金も支払わなければならなかった。
離縁が成立すると、村役人は実家へもどることを希望する女房の村送り状を発行した。村役人のあいだで転籍の書類がかわされると正式に実家の村人になれた。江戸時代の離婚率は存外高かった。そのため、離縁が特別視されることは少なかった。離縁した男性も別の女性との再縁を望んだし、女性は貴重な労働力の担い手であったから、再縁のチャンスはめぐってきた。