自立する女性たち

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江戸時代の後期になると、女性のなかには堂々と社会にたいして意思表示するものもあらわれる。善光寺町では、文化十年(一八一三)の九月ごろから米価が高騰し、十月には米の安売り要求や打ちこわしを予告する紙札・板札が町内にはりだされた。十月十三日、顔に墨を塗りほおかむりした人びとによって、米屋・酒屋が打ちこわされた(『市誌』⑬一九五ほか)。捕まった一七人のなかにひとり「きせ」という女性がいた。おそらく多くの男たちに交じってきせも打ちこわしに加わったのであろう。

 弘化二年(一八四五)、高井郡綿内村(若穂)のせんは、長五郎の仲人で同郡福島(ふくじま)村(須坂市)の清兵衛のもとへ嫁いだ。あるとき清兵衛は、せんの綿の種のこしらえかたが悪いことを理由に、暴力をふるい、腕の骨を負傷させた。せんはしばらく須坂町(須坂市)の医者へ通っていたが、そのうちに仲人に事情を打ち明けて、実家で薬用・療養することにした。ところが、夫がわはせんにも仲人にも断わらずに、一方的にわずかな田地を差しだして、離縁したいとせんの実家へ申し入れてきた。あわてたせんは、仲人と村役人へどうしても復縁したいと懇願した。嫁いでからわずか三年で破局を迎えることになったのである。

 すでに離縁話が事済みになっていたため、村役人の手にはおよばなかった。ついにせんは、須坂藩の郡奉行所へ夫の横暴を訴えでた。村役人たちは仲人たちを介してなんとか内済にしたいとしむけた。藩役人の吟味に猶予期間をもらい、郷宿(ごうやど)ら立ち入り人が協議した結果、せんを夫清兵衛の元へもどすことで話がまとまった。このとき、つぎのような約束が取りかわされた。①せんが手切れ金として受けとった田地は返す。②せん療養中の薬用金は夫が支払う。③家内がむつまじく暮らせるように、せんは親や夫に孝順しこどもを大切にする。④せんに不行き届きがあっても勘弁する。

 夫のわがまま勝手な行為を許さず、離縁を承知しなかったせんの強さが感じられる。わが子を福島の家に残してきたこともあったためか、せんは仲人だけでなく村役人や郷宿(ごうやど)、藩役人までも巻きこんで離縁に抵抗を示した。そしてついに復縁を果たしたのである(『綿内村区有』長野市博蔵)。

 天保七年(一八三六)、善光寺町桜小路に住む後家こふの娘ますは、時おり不埒(ふらち)を重ねたので善光寺役所から呼びだされた。吟味の結果、手錠・足かせで親類・組合へ預けられることになった。ますがどんな不埒を重ねたかは不明である。後家のこふは、小兵衛の女房だったが早くに夫と離縁した。そのため娘のますは母の手ひとつで育てられた。嘉永元年(一八四八)の「善光寺西町家業改帳」(『県史』⑦一二五二)でわかるように、江戸時代の後期には善光寺町には女所帯の家がたくさんあった。彼女たちは、縫い物をする賃糸稼ぎで生計を立てているものが多かった。女所帯ながらもそれなりに自立していたのである。こふ・ますの母子もその一軒であった。

 ますが不埒を重ねたのは、わがまま勝手に育ったことが原因だったらしい。預けの期間中、親類や組合のものが、ますの行状を諭したので、ますはまもなく心底から立ち直りを見せはじめた。母と娘は五人組頭に縋(すが)り書を提出した。この書は母こふの直筆(じきひつ)とみられる。平仮名の多いたどたどしい文であるが、筆づかいは手慣れた力強さが感じられる。二人はまず、「女の自分たちなので、前後の取り計らいや始末の仕方が不十分で申し訳ない」と詫(わ)びる。そして、「今後は本心に立ち返り心底を改めるから、品(しな)よく役人様へとりなしてほしい」と嘆願する。雛形(ひながた)がなくて書いた文章としては、組み立てが整っている。母こふは印鑑をつき、娘は爪(つめ)印を押している。女の二人が訴訟の前面に立っていることに、当時としては大きな意味がある。


写真15 天保7年(1836)善光寺町こふ・ます詫び書
(『今井家文書』県立歴史館蔵)

 二人の赦免嘆願が出されてからまもなく、こふの知人で横沢町に住む伝七が役所へます赦免願いを出した。かれは身元引き受け人になろうと名乗りをあげてくれた。「娘のますを自宅に引きとって、相応の縁付き先を見つけて嫁がせたい。このまま母親に頼っていたのでは、ますは独り立ちできない。母子の仲を裂いてでも辛抱させる」。この願書には、親類・組合、それに桜小路の庄屋・組頭が奥書している。庄屋たちの援助が得られたので、ますはまもなく赦免されたと思われる。綿内村のせんや桜小路のこふの行動にみられるように、江戸時代後期になると、女房や後家が実名を名乗って訴願の前面に立つようにもなる。