市域の自然環境と近世の農業

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近世は、それまでの農業技術がより改良され、農地の開発とあわせて、農業生産が大きく拡大した時代であった。

 自然環境で市域を特徴づけるものは、なんといってもその中央に位置する犀川(さいがわ)・千曲川(ちくま)両河川の広大な氾濫原(はんらんげん)である。これらの河川は肥沃(ひよく)な土壌を堆積したが、その反面でたびかさなる洪水によりしばしば耕地を流失させた。これにたいして、百姓たちにより流失地を復興する作業が絶え間なく繰りかえされた。また逆に、砂溜(すなだま)りとよばれる新たな堆積層が形成されるたびに新田の開発がおこなわれることになった。さらに、両川の河川敷では、農民が不安定な土地での耕作をおこなうために地割(じわり)慣行が形成されたところもあった。なかでも自然堤防では、芋の栽培がさかんになるなど、地味(ちみ)を生かした生産作物の選定がみられた。

 これら両河川の氾濫原を取りかこむように、犀川の左岸には裾花(すそばな)川、千曲川右岸には神田川、蛭(ひる)川、保科川など、さらに犀川と合流後の千曲川左岸には浅川などの扇状地が形成されている。とくに犀川扇状地である川中島平と裾花川などの扇状地の善光寺平では、農業にとって比較的めぐまれた環境のもとで、古くから米・麦の二毛作がおこなわれ、近世中期以降には商品作物の栽培が急速に広まった。商品作物の中心となったのが木綿と菜種の栽培であった。

 また、江戸時代に「山中(さんちゅう)」とよばれた市西部に広がる山麓(さんろく)および丘陵地の存在も見落とせない。気候面でも冷涼で、早くから商品作物の栽培が重要な役割をはたしていた。山中麻をはじめ、漆(うるし)、楮(こうぞ)、藍(あい)などが古くから栽培され、とくに麻・漆・楮などは領主にとっても重要な収入源となっていた。これらの作物は商品経済の進展のなかで、特産物としての地位を保つことで近世をとおして栽培されつづけた。他方、高井・埴科両郡の東の山沿いではたばこが栽培され、江戸のたばこ問屋に出荷されていた。

 このように近世における長野市域の農業は、自然災害に苦しみながらも地形・土壌や気候に適した利用を展開し、全体として近世を通じて大きな発展をみせていくのである。