自然環境だけでなく、近世の市域は政治面でも多様性に満ちていた。市域を支配した領主は、江戸時代初頭には森忠政・松平忠輝などの一円支配であったが、やがて分割された。主なものに、松代藩を筆頭に幕府領、善光寺領、長沼藩、上田藩、塩崎知行所、須坂藩、飯山藩、椎谷藩、浜田藩などが存在した。これらの所領は入りくんでおり、時期により移りかわった。このうち江戸時代初頭には、治水などの規模の大きな土木事業がおこなわれ、そのことが市域の農業環境を大きく変えた。松平忠輝時代の花井吉成・義雄父子によると伝えられる裾花川の付け替えの結果、鐘鋳堰(かないせぎ)・八幡(はちまん)堰の安定利用が実現したが、それにともなって、犀川流域での水害が激化し、もとは犀川の右岸にあった更級郡川合村の新田(芹田)がのち左岸に移ったり、同郡牛島村(若穂)が輪中(わじゅう)化する契機ともなった。また、犀川扇状地でも犀口三堰(さいぐちさんせぎ)が安定化し、川中島平の農業の発展を支える。
分割支配した各領主は、所領の新田開発などに力を入れ、貨幣経済が進展してくると地域の特性を生かした国産奨励政策を展開する。このことは市域での農業生産品の多様化をめざすことにもつながった。松代藩では、天保(てんぽう)四年(一八三三)産物会所を設置し、さまざまな農産物の統制と特産化をはかるが、単に藩の収益強化という面のみではなく、畳表に用いる藺草(いぐさ)などの新しい作物の導入を試みさせたり、市域の各地域で農業生産の特産化をめざす施策がとられた。あんずや薬用にんじん・甘草(かんぞう)といった薬種を百姓に試作させたりする。
しかし、こういった、いわば領主主導で保護・導入がはかられた作物は、少数の例外を除いてまったく忘れられてしまうものが多い。これらはけっきょく、全国規模の商品作物栽培の大きな波にのみこまれてしまったのである。その反面で商品生産の波にのった作物は、領主政策の有無にかかわりなく急速に広まった。市域は特定の商品作物の栽培地帯を形成していく。近世中期からの木綿・菜種、近世後期の養蚕のための桑の栽培などの商品作物栽培は、なかでも代表的なものである。これらは市域あるいは北信濃に広く一般化していく。市域一帯が商品栽培作物という点では、むしろ共通化が広まっていくのである。それはまた市域一帯に、新しく商業経済や手工業生産を視野にいれた農業経営が広がっていくことでもあった。さらに、領主の違いや旧来の社会関係をこえて、新しいつながりを村内や村々のあいだに形成していくことにもつながる。