市域の新田開発

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関ヶ原の戦いののち、慶長(けいちょう)八年(一六〇三)に江戸幕府が成立すると、社会は安定し、農業生産も飛躍的に向上した。そのもっとも大きな要因となったのが新田開発と農業技術の向上であった。

 新田ということばは、近世に特有のもので、現在の行政区画の呼称のなかにもその痕跡(こんせき)が認められる(表1)。


表1 長野市行政区域に残る新田地名

 一般に近世を通じた耕地の増大は、日本全国においてはほぼ倍増したと考えられている。耕地の増大はふつう石高の増加で説明されることが多い。しかし、市域の場合近世を通じ、もっとも多くの村々が属した松代領では、総検地は寛文(かんぶん)六年(一六六六)の指出(さしだし)検地を除いておこなわれなかった。基本となる全領規模の検地帳は、寛文六年のものだけで、その後の耕地の増大を知るための正確な指標はない。

 そういった条件を考慮に入れつつ、市域における新田開発の大まかな傾向をみると以下の五点に集約されよう。

(1) 新たな集落ができるような比較的規模の大きい新田開発は、江戸初期と後期に多い。

(2) 初期には、犀川・千曲川の流域の河川敷や山麓の広大な入会(いりあい)地がその対象となり、いわゆる土豪開発型のものがみられる。

(3) 後期には、開発の対象が山沿いや山間部の比較的小規模な土地に移る。

(4) 中期以降、河川敷の新田では洪水に悩まされる。また、本村との関係悪化から組分けの動きが強まる。

(5) 全体をとおして、個々の百姓が小規模な開発を積みかさねたものが多い。

 概して市域は新田開発の多い地域ではない。近世以前に開発がかなりすすんでいて、開発可能地はあまり残されていなかったといえる。近世中期にみられる町人請負型の新田がほとんどないことも、耕地の大規模な拡大の余地が少なかったことをうかがわせるものである。元禄十五年(一七〇二)の郷帳は、幕府の調査方針により前後の郷帳にくらべて新田村を多く登録している。そこにのせられた市域の新田村は、更級郡の柳沢新田村(篠ノ井二ッ柳)・境新田村(同)・中山新田村(篠ノ井山布施)、水内郡の蒔田(まきた)新田村(朝陽北長池)・赤沼河原新田村(長沼赤沼)、高井郡の赤野田(あかんた)新田村(若穂保科)・袖山(そでやま)新田村(同)の七ヵ村である。他の地方にくらべるとごく少ない。

 生産を増やしたい百姓と、年貢の増徴をはかりたい領主とで新田開発についての利害は一致していた。開発は領主の開発命令によるものと、百姓が願いでておこなわれるものとの両方があったが、全体としては百姓が開発を願いでるものが多かった。しかし百姓が自由に開発できるというものではなかった。新たに農地を開く場合、村内の百姓や周辺の村々などで既得権益が侵害されることも多く、関係する百姓にとっては無視できない問題であった。

 したがって、新田として開発できる土地はおのずと限定されており、まず、村内の了解のもとで隣村の了承と領主の承認とを必要としたのである。一般的には、関係諸村の了解を取りつけ、しかるのちに藩役所へ届けでて許可を得てから開発を始めた。開発が終了したのちに検地をうけて、開発分が村高に加えられた。開発期限は一般に五年とされ、このあいだは年貢・諸役免除の鍬下年季(くわしたねんき)となる。

 新田開発にあたっては、領主がわからも奨励や補助があった。松代藩では、荒地開発のさいの拝借金についての取り決めがあった。天明二年(一七八二)の覚(災害史料③)によると、拝借金は高積もり一石の場所は免二ッ(二〇パーセント)で、一俵につき代銀一二匁となっている。これは御礼金(利子)免除の拝借であるが、拝借金の増額にたいしては御礼金を納めることになっていた。そして御礼金御免・年賦(ねんぷ)拝借を願いでたものはすべて見分(けんぶん)することになっていた。また、拝借金による開発については、鍬下年季が三年にかぎられていて四年めに新田検地をうけ高請地(たかうけち)とすることがきめられていた。これは拝借金なしの場合の五年よりきびしい条件である。

 また、開発世話人については、藩から褒美がでた。初期の新田開発では、開発人に永諸役御免が認められ、のちには開発人代表にたいして籾(もみ)や金品がくだされるようになった。天明二年十一月には、水内郡小市村(安茂里)の耕地開発世話人勝右衛門・彦五郎・小右衛門、開発惣代団蔵がそれぞれ籾を一俵ずつもらっている(災害史料③)。なお、切添(きりそえ)などの小規模な開発については、随時役所に届けでて、高請地に加えられていったようである。藩から村々に新田の有無を報告させることもあった。

 もちろん、百姓が領主に届けを出さずに開発をおこなうことは、隠田(おんでん)とよばれ厳禁されていた。松代藩では、その程度が重いものは死罪、軽いものでも年貢・諸役の三倍上納とされていた。安永九年(一七八〇)、更級郡須坂村(戸倉町)では、開発分を一〇年間隠していたとして秘匿分の三倍にあたる一三五両あまりの上納を申しつけられている。もっともこのときはお情けで四五両あまりを下げられているので、じっさいには二倍の上納ですんでいる(災害史料②)。

 新田集落のありようも、近世社会の変化につれて確実に変化していった。以下に近世中期に本村からの独立をとげた新田を例に、その成立と変化をみてみよう。