更級郡川合新田村(芹田)は、上杉謙信の家臣であったという北村門之丞(もんのじょう)によって開かれた。門之丞は謙信死後の上杉景勝・政虎の家督争いのさい、政虎に味方して敗れ、牢人(ろうにん)となって高井郡綿内村(若穂)に蟄居(ちっきょ)の身となっていたという。その後、犀川川辺の荒地が多くあったので関崎河原の近辺の䳄(ママ)嶋(ははどりじま)というところに引きうつり、新田開発をおこなって人数を集め、一集落を立てた。その集落の場所が川合村の分地であったので川合新田村ととなえたという。開発は慶長年間(一五九六~一六一五)から始まり、その後の二代・三代の門之丞に引きつがれていった(川合新田 北村家旧蔵)。
門之丞には、開発人として六三石余の諸役御免が認められていた。また、門之丞と他の百姓との関係は、名主(みょうしゅ)・被官(ひかん)の関係にみられるような中世的要素を強く残したものであった。寛永十年(一六三三、門之丞が新田集落の住民を百姓に格上げするよう藩へ願いあげたことへの謝辞(同前蔵)や、寛文(かんぶん)五年(一六六五)に門屋(かどや)百姓に新田畑を下付したこと(『県史』⑦一五六)などからそのことがうかがえる。
いっぽう、川合新田村は早くから犀川・千曲川の洪水に悩まされた。慶長十六年には早くも開発地の多くが川欠(かわかけ)となり、その後も寛永十八、十九年、貞享(じょうきょう)三年(一六八六)、元禄八、九年(一六九五、九六)、正徳(しょうとく)年中(一七一一~一六)とたびかさなる水害が村をおそった。村高も増減を繰りかえし、集落の位置も変転した。
開発が始まった当初の居住地である〓嶋は現在の地名にはなく、どのあたりをさすか詳細は不明であるが、おそらく関崎の北西、犀川の右岸あたりであったと思われる。その後は、元和(げんな)四年(一六一八)に中島柳、元禄九年の洪水後は鍛冶沼(かじぬま)村(更北青木島)と犀川の左岸に沿って居住地は西に移動した。一七世紀を通じて犀川が大きくその流路を南下させたことが原因であった。現在の居住地への移動は享保(きょうほう)年間(一七一六~三六)のことで、四代目門之丞のときであった(川合新田 北村家旧蔵)。
こうしてようやく居住地の定まった川合新田村であったが、門之丞家と他の百姓との関係は確実に変化しつつあった。転機は六代目祐雪(ゆうせつ)のときにおとずれた。
享保十八年、祐雪の先代甚左衛門は祐雪が若いうちに死去し、祐雪は江戸に出て医師の修行をすることになった。このあいだ、新田の経営は思うにまかせず、村内外の圧力にさらされていく。
村内からは祐雪の諸役御免にたいする不満の声があがり訴訟となった。宝暦四年(一七五四)、藩の裁許で祐雪は新田の開発人としては認められたが、そのことは諸役御免の理由にならないとして、負担を申しつけられている(『県史』⑦二三八)。領主がわも藩財政逼迫(ひっぱく)から、それまで門之丞にあたえてきた特権を認めなくなり祐雪の立場を不利にした。
その後、祐雪は安永九年(一七八〇)に名主を辞退し、川合新田村の名主は村内の持ちまわりとなっていくのである(川合新田 北村家旧蔵)。