福島(ふくじま)新田(朝陽北屋島)は、高井郡福島村(須坂市)から千曲川をはさんだ対岸に出作(でさく・でづくり)するという形で開発がすすんだ。近世初期から開発がすすめられ、寛永元年(一六二四)までに三二五石余が開かれ、開発を請けおった理右衛門はその功績が認められて代官に取りたてられている(『信史』24一六四)。付近一帯は、千曲川の左岸に形成された砂溜りであったと考えられ、同じ対岸の高井郡綿内村(若穂)からは土屋坊(どやぼう)組として、また、更級郡大豆島(まめじま)村(大豆島)からも切添・出作の形で開拓がすすんできていた場所である。
宝暦十一年(一七六一)、福島新田は本郷福島村から組分けしたいとする願書を松代藩に提出した(北屋島区有)。組分け願いの理由としてつぎの諸点があげられた。
① 本郷の福島村から三〇年以来、夫銭(ぶせん)・諸掛かりをおびただしくかけられ、そのうえ理不尽な掛かりなどをかすめとられてきたため、新田百姓は近年とくに困窮してしまった。
② 先年から水除け堤囲いを築き、その後少しずつ高さを増してきたところ、享保十四年(一七二九)の満水のとき、本郷から新堤と非難されて、残らずくずされて平地になってしまった。
③ 享保十五・十六両年、新田内に植えてきた柳を川除けの用木にするとの理由で、本郷がわが取りはらってしまった。そのさい、農作物を踏み荒らされたうえ、切りとられた柳木を日々本郷まで届けさせられて難儀した。
④ 一三年以前の巳(み)年(寛延(かんえん)二年、一七四九)、砂溜りの場所へ麦を蒔(ま)いておいたところ、切りとられたり踏み荒らされたりした。そのうえ、たくさんの年貢を申しつけられ難儀している。したがって、新田がわに芝野・砂溜りができても切りおこすことができないので、新田百姓は困窮難儀におちいっている。
⑤ 本郷村と新田村とのあいだに、千曲川・犀川が流れていて、通行が不自由である。本郷へ金納で年貢を納めてきたが、こののち、年貢を本郷と別上納にしていただくようその節々の代官所に願いでてきている。
⑥ 本郷は、宿場役などの免除が五百余石も認められているのに、新田村は伝馬人足なども万事つとめてきた。そのうえ、村方には砂溜り・起き返り地もあるのに、年貢上納のときは上地の場所並みに割りつけられている。さらに、宿場御通りなど御用のときは、本郷の人足には賃銭を出すが、新田村の人足は八町(はっちょう)山(須坂市)の松葉切りに追いまわし、賃銭は一銭も払わないなど難儀している。
⑦ 去る丑(うし)年(宝暦七年、一七五七)の満水以降、砂溜り泥地に海蒔きと称して稗(ひえ)を蒔いたところ、本郷の村役人が見まわって、見取り年貢と称して稗を取りたてた。
本郷にたいして、新田組はさまざまな面で従属的関係を余儀なくされており、不満も高まっていたのである。
この訴えの結果、明和九年(一七七二)、本郷と新田との組分けが松代藩から申しつけられた。その理由としては、千曲川が両村をへだてていることによる地理的事情が大きかったようである。
新田組の分村運動は以後もつづき、天保十四年(一八四三)に、藩からそれぞれの飛び地を調整するとともに宗門人別帳・土目録(どもくろく)(年貢割付状)を別にするとの申し渡しを得ている(北屋島区有)。
その後、明治維新のさいに、いったん同じ高井郡に属したためであろうか両村はふたたび福島村として扱われることになったようである。明治十二年(一八七九)に新しい郡制度が実施され、それにともなって郡境界の変更要求運動がおこるが、この動きのなかで福島新田村から明治十八年にふたたび分村願いが出されている。現在、かつての福島新田は水内郡のうちとなり、屋島地区(朝陽)の一角となっていて本村福島村との関係のなごりはほとんどない。しかし、かつてはこのようなねばり強い新田集落の独立運動が展開された地だったのである。