稲の品種と稲作の変貌

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宝永三年(一七〇六)に上田領全域で村明細帳が作成された(『大日本近世史料』)。このうち市域にあたる更級郡塩崎(篠ノ井)、今井・上氷鉋(かみひがの)・今里・戸部(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)各村の明細帳から当時の作物のようすをうかがい知ることができる。

 これによると、これらの村々で共通して栽培されていた稲の品種は、永楽(えいらく)・こぼれ・餅(もち)の三種で、戸部村ではほかに福千石・甚三・目赤・奥州・西国(さいごく)・白永楽の六種があげられている。一般に当時の百姓は、労働力の分散をはかるとともに、干害や冷害による収穫の悪化を少しでも防ぐために複数の品種を植えつけていた。

 一八世紀の初頭には、川中島平では主に永楽・こぼれ・餅の三種類の品種が主力であったが、一九世紀になると、赤永楽・白永楽・覆(こぼれ)・京覆・島田覆・別所・雨の宮・高田早稲(わせ)・戸熊・半大夫(はんだゆう)・京早稲・御前餅など、多くの品種の名がみられるようになる。宝永期の戸部村にみられるように、主力の品種以外にもさまざまな品種導入の試行錯誤が絶えずおこなわれていたようすがうかがえる。

 また、川中島平一帯は、古くから稲と麦の二毛作がおこなわれていた。延享(えんきょう)三年(一七四六)の戸部村「耕作手入書上帳」(『更級埴科地方誌』③下)には、すでに裏作としての麦の耕作についてふれており、少なくとも一八世紀中期には同地で二毛作が一般的に展開していたことが知られる。

 近世後期になると稲作のようすも大きく変わってきた。享和(きょうわ)元年(一八〇一)から嘉永四年(一八五一)にかけての上田領中氷鉋村に残された坪刈りの記録から変化を追ってみよう(表2)。


表2 享和元年(1801)~嘉永3年(1850)坪あたり株数・収量の変化

 それぞれの収量はあまり変化はみられないが、一坪あたりの株数の変化は、一八三〇年代をさかいに確実に減少をみせている。それは水田の等級にかかわらず、共通してみられる現象である。これは、少ない株数を多く分蘖(ぶんけつ)させることにより、従来と同じかそれ以上の収量をあげることができるようになっていることを意味し、生産性の向上をみることができる。また、同じ時期から、それまでの主力品種であった永楽・こぼれに加え、別所という新しい品種がしだいに増えてくる。また、それまでにくらべ、坪刈りの場所が一~三ヵ所であったのが四ヵ所以上になるなど、かなり詳細な結果が残されるのもこのころ以降である。

 この変化には、さまざまな要因が考えられるが、主因は、品種改良がおこなわれたことと、多くの肥料、ことに金肥(きんぴ)(購入肥料)の投入によって地味の向上と安定がもたらされたことにあろう。

 いずれにしても近世後期、とくに天保期(一八三〇~四四)をさかいに、稲作の方法や生産性にも大きな向上がみられたのである。