畑作物とその種類

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いっぽう、先にあげた宝永の村明細帳から、畑作物として大麦・小麦のほかに、大豆(だいず)・小豆(あずき)・ささげなどがほとんどの村で作られていたことがわかる。また、雑穀としては蕎麦(そば)・黍(きび)も多くの村で作られていた。なお、麦の品種としては、戸部村の「耕作手入書上帳」(『更級埴科地方誌』③下)に大麦の毛長・茶せん・矢の羽・九升程、小麦の三助・大坂・甲州の品種がみえる。寛政四年(一七九二)の今井村「差出明細帳」(『堀内家文書』県立歴史館寄託)にも、大麦の品種として毛長・茶せんがあげられている。こういった雑穀類は米の不足をおぎない日常的に食べられた。そのほかでは、大根がすべての村で作られているのにたいし、菜・蕪(かぶ)や胡麻(ごま)などは半数ほどの村で記しているにすぎない。しかし、小豆・白胡麻・黒胡麻・芥子(からし)・辛子(からし)(唐がらし)は市域の上田領全村で「御地頭様御入用次第差し上げ」とあるので、記載以外の作物も耕作されていた可能性がある。おそらく、そのほとんどが自給用または領主への差し出し分で、あまりがあれば定期市(いち)などで売ることもあったのであろう。

 これらの村々のなかでは、塩崎村が牛蒡(ごぼう)や楮(こうぞ)の栽培を記すなどやや特徴的なものがみられるが、一般に江戸前・中期の市域では、米のほかに麦・蕎麦・粟(あわ)といった雑穀に加え、大豆・小豆・ささげなどの豆類と大根が作物の中心だったといえるであろう。しかし、文政五年(一八二二)の更級郡岡田村(篠ノ井)寺沢家の「農業耕作万(よろず)覚帳」(『県史』⑦一一八六)では、これに加えて瓜(うり)類や早人参・茄子(なす)などがあげられるようになっており、江戸後期には畑作物の種類が大幅に増加したことが知られる。

 こうした自給用がかなりの部分を占める作物に加え、はじめから換金を目的に作られる商品作物があった。とくに、江戸後期に入ると、商品作物の栽培は急速に発展し、貨幣経済の拡大浸透にとどまらず、社会全体にさまざまな影響を広くおよぼすようになっていくのである。