一年間の農事

545 ~ 549

江戸時代の暦は太陰(たいいん)太陽暦(いわゆる旧暦)であった。これは月の満ち欠けの一周期をひと月とするものである。月の公転周期はおよそ二九・五日で、大の月(三〇日間)と小の月(二九日)を組み合わせて一年とした。一年の日数は三五四日で地球の公転周期より一一日ほど短い。そのため約三年でひと月のずれが生じてしまう。これを調整するために、一九年に七回、閏(うるう)月(同じ月を繰りかえす)をもうけて調整する。しかしそれでも、それをそのまま農耕の目安とすると、場合によって一~二週間の誤差があり適当ではない。したがって、農耕では多くの場合いわゆる二十四節気(にじゅうしせっき)が目安となった。これは黄道上の太陽の角度を基準に算出されるもので、現在の太陽暦と基本的には同一のものである。じっさいにはこれに加え、各季節の土用や八十八夜、半夏生(はんげしょう)などの雑節(ざっせつ)が重要な農耕の目安となった(表4)。以下に、先にあげた延享三年(一七四六)の戸部村の「耕作手入書上帳」(以下、書上帳)および文政五年(一八二二)の岡田村「農業耕作万覚帳」(以下、万覚帳)を中心に、一八世紀半ばから一九世紀にかけての川中島平における一年の農作業を追ってみよう。


表4 二十四節気

 農家の一年は正月(現在の太陽暦では一月下旬から二月上旬にかけて)から始まる。雪があるうちから折をみては田畑の見回りをする。七草をすぎればほぼ大麦に追い肥をあたえる。いっぽうでつるべ縄をない、二月になれば草鞋(わらじ)を作る。藁(わら)をなう仕事は男の仕事であった。また、農業に必要なもっこ・ぼて・こも・蓑(みの)・背負子(しょいこ)などの用具類をこのあいだに用意する。暦の関係で春が長いときは俵もつくれるが、春が短いとできないので冬中にこういったものも用意しておかなければならない(万覚帳)。

 二月の彼岸(現在の春分の日前後)前には茄子を植える苗間をつくる。彼岸になると茄子の種を蒔(ま)く。また、彼岸過ぎ一〇日ほどして田が乾きしだい田起こしを始める。田起こしをしたら引きつづき土の塊をならす代(しろ)かきをおこなう(万覚帳)。

 田起こしや代かきには馬が多く用いられた。里郷村々では馬を多く飼う山中村々から多数の代かき馬を飼い主とともに雇いいれた。文化十四年(一八一七)には三月二十二日から四月八日までおよそ七、八百匹の山中馬が、遠く松本領の大町(大町市)や松川村(北安曇郡松川村)にまで雇われていた(『松代真田家文書』「勘定所元〆日記」国立史料館蔵)が、善光寺平の村々へはさらに多数の二〇〇〇匹にものぼる山中馬が雇われたと考えられる。天保四年(一八三三)に、岡田(篠ノ井)、今里・戸部(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)の四ヵ村で、代馬代・山手籾あわせて八〇〇俵余が引き方となっており、かなりの籾が代かき馬代として山中村々に渡されていたようすがうかがえる(『県史』⑦三六一)。

 春の土用(ほぼ現在の四月下旬から立夏まで)になると瓜類・牛蒡・早人参やささげなどのうち、半分を蒔く。種を蒔く一〇日ほど前に畑を耕し、肥やしをたくさんほどこす。苗が成長してきたら追い肥をときどきくれるとよい。立夏の直前に八十八夜(現在の五月二日前後)があり、その二、三日すぎに木綿を蒔く。田綿を先に蒔き畑綿はあとで蒔く。早蒔きは霜にやられ、遅蒔きは育ちが悪い(万覚帳)。また、早蒔きの大豆もこの時期に蒔く。立夏より二週間ほどして小満(しょうまん)(四月中(ちゅう))となる。大根の種蒔きは節句より一〇〇日とあるからちょうどこの時期に相当する。この小満より一週間ほどのうちに種籾を水に浸して種籾を蒔く準備を始める。種籾を蒔く時期は苗取りより三三日前で、気候により一日前後する。またこの時期に畑には大豆の種蒔きも始まる(書上帳)。

 夏至(げし)(五月中)の二、三日前に、水田の裏作の大麦を刈り、夏至から七日ほどして同じく裏作の小麦を刈りとる。畑の小麦は半夏生(現在の七月二日前後)の五日すぎごろに刈りとる(書上帳)。夏至以降に、春土用で蒔いた作物の残り半分を蒔くとよい(万覚帳)。

 夏至から一一日目が半夏生で、更級郡の川中島平を中心に市域の南寄りでは半夏生のころが当時の田植えの時期であった。しかし、水内郡里村山村(柳原)では夏至までに田植えを終えており(大宮市 小坂順子蔵)、市域の北東寄りでは川中島平にくらべるとやや田植えが早かったことがわかる。信州全体でも夏至を田植えの目安としているところが大部分なので、川中島平は遅かった。

 用水不足の年は田植えを遅らせるが、それでも夏の土用入りの一〇日前までには田植えを終わらせるのがつねであった。いっぽう、畑でも半夏生に粟をまく。半夏生から五日ほどして、畑の小麦の刈りとりと並行して、田植えから一〇日を目安として水田の草取りをおこなう。一番草のあと、一〇日ほどの間隔で二番草、三番草をとり、最後の四度目の草取りは稲の成育状況をみておこなわれた(書上帳)。田の草取りばかりでなく、一般に草取りは百姓にとってもっとも重労働のひとつであった。なお、水田の最初の草取りのあとに、木綿の一回目の追い肥をおこない、木綿には合計三回の追い肥をあたえる(万覚帳)。

 六月も半ばをすぎ夏の土用になると、黍と蕎麦を蒔き、七月の立秋過ぎには菜の種蒔きがおこなわれた。菜の蒔きつけは節分から二〇〇日が適当とされていた(書上帳)。高菜については八月の彼岸あけがよいとされた(万覚帳)。

 秋には稲の収穫がおこなわれる。一九世紀前半の中氷鉋村では秋の土用入りより二日ないし三日目、ちょうど霜降りのころまでに藩役人の検見(けみ)をうけてから収穫された(『市誌』⑬二八三)。近世中期以降、幕府領をはじめ諸領の年貢の割りつけは過去の一定年間の平均値でおこなう定免法(じょうめんほう)に移ったが、上田領では近世の一時期を除いてじっさいに坪刈りをおこなって年貢率を決定する検見法がつづいたことが特徴である。検見では上田・中田・下田の三ヵ所で坪刈りをおこない、全体の収量を推計した。この結果をうけて毎年年貢の割付状(わりつけじょう)が出されるのである。また、この検見には藩役人の送迎などが義務となっていて、百姓にとって入用がかかると同時に気をつかう行事であった。割りつけをうけた年貢については、村役人が中心となって、村内の個々の百姓に年貢の割りあてと徴収がおこなわれた。村の年貢を納めおわると藩役所から皆済状(かいさいじょう)が交付された。これによって、その年の百姓の貢納は一段落するのである。しかし、稲刈りが終わったあとも農事はつづく。

 秋の土用前から土用入りにかけては、早稲田には菘(とうな)(油菜)を蒔きつけ、さらに土用中に稲を刈りおわった水田に大小の麦を蒔く(書上帳)。

 また、十二月には木綿糸引きをおこなうとともに、つぎの年に蒔く木綿の綿実を保管する。さらに種粕の準備をする(万覚帳)。ここでは木綿糸引きが取りあげられていて女性の仕事がかいまみられる。

 もちろんこれら耕作のあいだにも、農間稼ぎやさまざまな村の行事などがあり、百姓の一年は多忙であった。