農具とその進歩

549 ~ 552

農作業をおこなううえで、農具が非常に重要なのはいうまでもない。農具類の主な役割と種類をあげると以下のようになろう。

①起耕、耕作に使うもの……………鍬(くわ)、鋤(すき)

②草刈り、収穫などに使うもの……鎌(かま)

③穀物の脱穀や調整に使うもの……扱き箸(こきばし)・千歯扱(せんばこ)き・臼(うす)・杵(きね)・篩(ふるい)・箕(み)・唐箕(とうみ)など

④野生動物から農作物を防護するもの……鳴子(なるこ)・かかし・脅(おど)し鉄砲など

 享保十五年(一七三〇)、更級郡今井村で百姓の与兵衛が闕所(けっしょ)となったさいに、田畑・屋敷・家財の目録がつくられた(『市誌』⑬一八二)。そのなかから農具に相当するものを取りあげると、鎌四丁、鍬二枚、鋤二丁、鍬がら二丁、すり臼一つ、石臼一つ、杵三丁、篩大小三つ、箕二つ、つき臼一つなどがあげられる。

 土地を耕作する農具として、鋤、鍬は欠かせないものであった。まず、鍬についてみてみよう。ひとくちに鍬といってもさまざまな種類がある。

 百姓与兵衛の所有していた鍬の種類は、鍬がらが別に書きあげられていることから鍬の刃をふだんは柄から分離して管理する風呂鍬だったと思われる。近世中期にはそれだけ鉄が貴重品であったといえる。

 慶応年間(一八六五~六八)に上田藩から精農褒与として、鍬一丁が上氷鉋村(川中島町)の中山新治に下賜されているが(写真3)、これも風呂鍬であった(『上氷鉋誌』)。また、近代になってからの調査でも川中島平においては、風呂鍬の使用が報告されており(『日本の鎌・鍬・鋤』)、市域では近世を通じて風呂鍬が広く用いられるようになったと考えられる。


写真3 風呂鍬
(川中島町原 中山利雄蔵)

 このほか近世中期以降、備中(びっちゅう)鍬とよばれる鍬が全国的に普及し、耕地の深耕と耕作効率を高め、生産力の向上に寄与した。これは、鍬の刃先が三本刃や四本刃に枝分かれしているのが特徴であるが、この系統の鍬に万能鍬がある。市域でも、田野口村の小林家の鍛冶屋への支払い覚書きのなかに、おそらく万能鍬と思われる万鍬子の名がみえ、近世後期までにはこの万能鍬が市域の村々でも生産され、使用されていたことが知られる(『小作騒動に関する史料集』五八七頁)。この鍬は価格も高く、おそらく風呂鍬と思われる鍬先が二〇〇文なのにたいして倍以上の五〇〇文となっていた。また、同じ史料のなかに板鍬の名もみえ、本体が木製で刃先だけが鉄という風呂鍬だけでなく、刃先全体が一枚の金属製と思われる鍬(唐鍬(とうぐわ))も使われるようになった。こちらも三三〇文と、万能鍬ほどではないにしても一般の鍬先の一・五倍をこえる値がつけられていた。

 つぎに、鋤についてみてみよう。鋤は、鍬とちがって、耕作者からみて前方に押しだす力を利用して土を掘りおこす起耕具である、弘化四年(一八四七)、善光寺地震で犀川が決壊して大洪水が発生したことはよく知られているが、そのさいに下流に流され、拾われたものの書き留めにも農具がいくつかみえる(金井清敏「弘化地震の満水拾い物書き留帳」)。そのなかでは、鋤の類がもっとも多く、一一丁を数えている。「えんくわ」とよばれた踏み鋤が大半を占め、起耕具として広く用いられていたことがわかる(写真4)。ほかに馬鍬(まんが)台が二つほどみえ、近世後期になると春の水田の起耕に代かきだけでなく田起こしにも馬が用いられたことがうかがえる。


写真4 踏み鋤
長野市博提供

 さらに鎌についてみてみよう。水内郡の大古間村・柏原村(信濃町)では、のちに信州鎌とよばれる鎌の生産がさかんになるが、それとともに大きな改良がなされている。とくに信州鎌の特徴である芝付(しばつけ)とよばれる刃先の手前につけられた腰入れ角は、天明七年(一七八七)に柏原村の仙右衛門によってつけられるようになったという。また、もう一つの特徴である片刃型への改良は、一九世紀初頭に大古間村の津右衛門によってなされたと伝えられる(『信濃町誌』)。

 近世における脱穀用具の画期としては、千歯(千駄)扱(せんば(せんだ)こ)きの発明があげられる(写真5)。天保四年(一八三三)水内郡栗田村倉石家の「諸道具書立帳」(『市誌』⑬二一〇)のなかにせんだんこきの名がみえ、近世後期には、裕福な百姓を中心に千歯扱きが普及したさまがうかがえる。千歯扱きの普及でそれまでの扱き箸による脱穀にくらべ、農作業における脱穀の効率は三倍ほど高まったといわれる。また、右にあげた弘化地震の水害の拾いもののなかにも六丁の稲こきがあげられているが、おそらく千歯扱きであろう。なお、千歯扱きには刃先が竹製のものもあるが、こちらは主に麦の脱穀に用いられた。


写真5 千歯扱き
長野市博提供

 山方の村々では畜類が多くあらわれて作物を荒らすので、畜類脅し筒(おどしづつ)の所持が認められていた(『県史』⑦五二)。これは、鉄砲を空砲で用い、その火煙や爆音で、野生の動物を追いはらうために利用するものであった。この場合、実弾による殺生(せっしょう)はかたく禁じられており、鉄砲といっても事実上農具として用いられたものであるといってよい。