近世をとおして農法の改良は絶えずつづけられ、それがまた農業生産の向上に寄与した。
市域に隣接する埴科郡森村(更埴市)では、以前は十分に土地を耕し、多くの施肥(せひ)をしても、一〇束刈って籾六斗であったものが、嘉永年間(一八四八~五四)には少し耕した水田に施肥や手入れを十分にしなくても一〇束刈りで籾二俵(一石)の収穫があがるようになったという(中条唯七郎『見聞集録』)。安定した施肥が継続された結果、土地が肥沃(ひよく)になってきたさまがうかがえる。それにともなって、肥料も青草や若枝を刈ってそのまま水田に踏みこむ刈敷から「物がら」にかわってきているが、この「物がら」のなかには、油粕などの金肥も当然ふくまれていたのであろう。近世前期においては、施肥といえば、刈敷が主なものであった。ほかに馬の糞尿とわらの混合物を発酵させた「馬屋肥(まやごえ)」や豆がらの「えんとう」、庭にわら・雑草・落葉や野菜くずなどを積んで肥料化した庭肥(堆肥)や、速効性のある下肥(しもごえ)(人糞尿)なども肥料として使われたが、これらは副次的なものであったと思われる。商品作物の栽培がさかんになる以前は、この刈敷にするための草刈りが農繁期の百姓にとってもっとも大きな仕事であった。
しかし、近世後期になって商品作物の栽培が急速に拡大すると、肥料も刈敷中心から脱して多種多様な肥料が大量に使用されるようになった。木綿や蔬菜(そさい)類の栽培には多くの肥料を必要としたからである。
このような状況下では、肥料も自給用のみではなく、よそから買いいれる「金肥(きんぴ)」が必要不可欠となっていく。金肥というと全国的には干鰯(ほしか)が代表的なものであるが、市域ではほとんど使われた形跡がない。市域での金肥の中心は種粕(菜種油のしぼりかす)であった。また、善光寺町周辺や松代町近辺では、蔬菜が都市近郊農業として発達するにつれて、町内で排泄される下肥も金肥として重要な役割をはたすようになっていった。また、二毛作が普及し、水田への木綿の植えつけもさかんになるが、それがまた農地への肥料投入を促進することになった。
先にあげた寺沢家では、嘉永四年に片灰、種粕肥料代として合計金四両一分一朱銭二〇〇文を支払っている。夏七月と冬十二月にそれぞれ六俵ずつの種粕などを購入していたようで、種粕三俵でおよそ一両の見当であった(『更級埴科地方誌』③下)。下肥については松代町の例をひとつあげておこう。慶応二年(一八六六)更級郡小島田(おしまだ)村(更北小島田町)の岡沢多左衛門は年間をとおし、松代町の町家四軒をまわって大小便を買いとっているが、このうち松代荒神町の浅吉のところへは三一回出むいており、その代金は大便八片(かた)で代金一両、小便一三片で銭二貫六〇〇文であった。また、年末には餅白米三斗を浅吉に渡しており、大小便の買い入れ先には年末に餅米をもっていくのが慣行だったようである(『県史』⑦八五一)。
寺沢家では先にあげた「農業耕作万覚帳」で、作物ごとに肥料の準備の仕方やあたえ方をこまかく記している(表5)が、これをみると、近世後期の農業生産は金肥の効果的な利用を抜きにしては成りたたなくなっていることがわかる。
金肥の普及の結果、それまでの肥料の主力だった刈敷にたいする需要は減少していった。森村では、一八世紀の後半までは、田植え後の農休みから盆の七月十六日までのあいだ、馬をもつ家はすべて朝食前に入会地へ行って一駄ずつ草を刈っていた。それがしだいに毎日がときどきになり、弘化年間(一八四四~四八)にはついに朝の草刈りをするものがいなくなってしまった。それでも草刈りをさかんにしていたころより作物の収穫量は多くなっていると感じられていた(『見聞集録』)。
いずれにしても、日本の農業の特徴である多肥料多労働の集約農法が、近世後期の商品作物の発展にともなって市域においても着実に根づいてきたのである。