小作の発生と実態

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一般に近世中期以降、質地流れによって土地の所持権を失い、百姓が自作農から小作人となっていく動きが強まってくる。金銭の工面に行きづまった百姓は、やむなく資金力のある百姓や商人から借金をすることになるが、その担保となるのは、たいていはこれまで所持してきた高請(たかうけ)地であった。つまり所持地を質に入れて借金する。このような形で有力百姓と金銭を必要とする百姓とのあいだで結ばれる契約書がいわゆる質地証文である。

 質地証文は、最初に借用金額が記され、ついで質に入れる土地と換金の算出についてふれる。そのあとに、借金の理由と返済期限、利息と誓約などが書かれている。署名は借り主と保証人が連判し、さらに村役人の奥書印判が加わる。土地の移動に関することは、たんに本人の責任だけでなく、村共同体の承認が必要だったのである。このような部分では、私的所有の確立した近現代における抵当流れとは異なった性質をもっている。

 こうして高請地を担保として有力百姓から金銭を工面し、当面はなんとかなっても結果的に期限までに弁済(請け戻しという)ができなければ、その地は質流れとして債務者の耕地の保有権はほぼ失われる。そのさい多くは、借り入れ金の返済を何回か催促される。貸し主がたえかねて訴訟におよぶこともあった。

 いずれにせよ、請け戻しできなかった百姓はふたたび貸し主と質流れ請証文を取りかわし、多くはそのままかつての所持地の耕作をつづける形で小作人化していくのである(直(じき)小作)。

 ところで、小作地における小作料の割合はどのくらいであったのか。先にあげた、中氷鉋村の青木家の坪刈りの記録から当時の水田の収穫量を推定してみよう。享和元年(一八〇一)から嘉永四年(一八五一)までのおよそ五〇年間の坪あたりの平均収量は一升二合五勺余で、一反あたりに換算すると約三石七斗七升余となる。一俵五斗計算で俵数にするとおよそ七俵と半分余である。当時の川中島平の小作料は反あたり四俵ないし四俵四斗ほどなので、中間の四俵二斗で計算すると、三俵ほどが小作得分として残ることがわかる。じっさいには、小作料に領主への年貢・諸役がふくまれており、それがおよそ半分を占め、全体の取り分は領主・地主・小作が三・三・四の比率となる。結果として小作取り分が比率としてもっとも多くなっている。さらにここに裏作の分が加わるので、小作の取り分はそれ以上になる。小作人にもそれなりの得分があったといってよいであろう。

 近世後期には所持高が数石以下の零細な百姓の数が急増する。自作分では暮らしが立たないから、これは小作人の増加を意味した。こういった零細な百姓は貨幣経済の進展にともなって、農業だけでなく諸稼ぎなどにその活路を見いだしていった。

 小作料に関していえば、小作人にとって安いにこしたことはない。当時の農村では不作にみまわれることも少なくなく、そういった場合、小作料の引き下げ要求も切実なものとなった。

 近世後期になると、小作料の引き下げ要求を求めて百姓たちが多人数で宮地や山野に集まって相談するという事態がおこりはじめていた。寛政十年(一七九八)十一月、須坂藩で小作人が集まって相談することを禁止する触れが出された(『県史』⑧一九一)。小作人たちの動きを危惧(きぐ)した藩が小作人たちを牽制する目的で出した触れであったと思われる。はたして小作人たちが田畑不作を理由に小作料の引き下げを要求したところ、地主たちがわずかばかりしか引き下げなかったので、その年の十二月十八日に高井郡綿内村(若穂)山新田の蓮花原へおおぜい寄りあつまるという事態となった。徒党を組むことは重罪であったので、翌寛政十一年二月から吟味が始まり、四月に判決が申しわたされた。判決では、小百姓の実情も考慮し、罪科を軽減するとともに小作人たちには今後徒党を組むことをきびしく禁じたが、同時に地主がわにも柔軟な対応を命じている(同前書⑧一九二・一九三)。

 慶応元年(一八六五)十一月には、権堂村(権堂町)で前年におこった小作出入りの和解が成立している。これによると、前年の不作にさいして、いったんは小作料三割引きの決定が出たが、小作人の要求でさらに七分の追加引き下げがきまり、小作人一同も承服している(『県史』⑦一四九五)。

 こうして、小作人たちは小作料の引き下げを求めて団結して行動をおこすようになり、要求を実現するものもあらわれてくるのである。