質地の拡大と村共同体

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ほんらい、小作料は地主と小作人との相対(あいたい)による契約できまる性格のものであるが、市域では、村の合意によって小作料がきめられていたようすがうかがえる。安政五年(一八五八)、更級郡原村(川中島町)で小作出入りがおこったが、原因は、同年の小作年貢減免にさいし、木綿畑一割引き、田方一割質流し猶予の取りきめにたいして一部の地主がそれ以上の減免を認めた点にあった(『県史』⑦八四一)。地主一同のうち勘右衛門ほか四人が「村定」以外に引き方を認めたとあるから、原村では小作料や減免の決定については事実上村の合意のもとでおこなわれていたとみてよいであろう。勘右衛門は取りきめのほかに田畑を一割貸し流しにし合計二割の減免を認め、他の四人が野菜畑一割を貸し流しにしたというのである。この点を小作人惣代が問題として代官所に押しかけた。

 この出入りでは、村役人以下地主一同が「小作人一同の者にたいし未熟にあいあたり面目御座なく候」としつつも、最終的には勘右衛門の分は今回の減免を有効とし、ほかの地主一同はほんらいの決定どおりの減免以外は認めないことで決着をみた。もっともそのさいに口利きをおこなったとみられる喜助にたいし、「村方穏やかに治まり候義をも、かれこれ口入れ仕り惑乱」させたとして、村役人一同がお咎(とが)めを願いでている(『県史』⑦八四三)。村の共同体としての存在や意識をそこなう行動と判断されたのである。

 地主と小作との関係に村が深く関与した点は、小作料についてばかりではなかった。商品経済の流れはのちの下肥騒動でもふれるとおり、村ばかりか藩領をもこえて広まる性質をもつ。しかし、質地の拡大にたいしては村域や藩領をこえて広まることへの食いとめがはかられた。文化五年(一八〇八)、更級郡下小島田村(更北小島田町)では「古新田他村譲渡多きにつき、村方相談のうえ他村永代譲りの儀は決して仕らざるよう」にときめ、定法としている(『県史』⑦一九一)。また文化十二年には、松代藩代官所にあてて水内郡北長池村(朝陽)が他領への質地を禁じる仰せつけにたいする請書を差しだしている。これらは、地主・小作関係が村や藩領をこえる例が増えつつあったことが背景に考えられるが、村方や領主がその動きを食いとめようとしたものである。

 このような質地流出防止の動きは市域の近隣でも認められる。下小島田村の定法決定と同じ文化五年、埴科郡小島(おじま)村(更埴市)で清太郎の所持地が他村へ流れたさいの扱い方の願いが幕府代官所に出されている(『県史』⑦六四〇)。そのなかで、いったん印を押して契約が成立した質地については、「その先々より何方へ質流れ相成り候ともはかりがたく、左候えば向後に至り候ても、まず地主へ立ちかえり候義これなくと存じ候」とそのほとんどが質流れになるという現実認識があり、この結果「他村出石相増し村高減じ候えば、自然と村方困窮いたし候義歴然」であるとする危機感があった。これは、市域における村々においても共通の認識であったとみて差しつかえなかろう。

 万延(まんえん)元年(一八六〇)の更級郡岡田村(篠ノ井)寺沢家の小作人は、合計で七六人でその籾請けの高は六〇〇俵余に達する。しかし、他村のものはこのうちわずか五人で小作料籾全体の約七パーセントにすぎず、他領のものはさらに少なく二人で小作料籾にして約三パーセントのみである(『県史』⑦一一九〇)。岡田村においては幕末期にいたっても他村・他領の質地は例外的なものだったと理解される。質地の他村流出にたいする共同体的規制が強く作用した例といってよいであろう。