農業生産にとって主食となる穀類と並び、蔬菜(そさい)類の栽培も副食の確保の意味からも欠かせなかった。先にあげた上田領宝永三年(一七〇六)の村明細帳では、蔬菜類としてあげられるのは大根、菜などである。村明細帳では収穫量などがわからないが、種類がかぎられていることなどからも、自給のための栽培が中心だったと考えられる。
江戸時代中期までは、史料で見るかぎり蔬菜の種類も少ない。しかし、文政期(一八一八~三〇)ころまでには、蔬菜の種類が増加してくる。前にあげた「農事耕作帳」などからも、このころには茄子(なす)が日常的に栽培されるようになっていたことがわかる。また、自給用の作物だけでなく、善光寺町や松代町へ販売することを目的とした蔬菜の栽培もおこなわれるようになる。明治二年(一八六九)の更級郡中氷鉋村(更北稲里町)青木家の収支をみても、菘(とうな)の販売で二六両余を売りあげており、蔬菜栽培がかなりの収入になったことが知られる。市域にも確実に近郊農業が広まっていったのである。
このような蔬菜栽培の広まりはぜいたくな野菜の消費という方向にも発展した。それは領主にとって見のがすことができないほどになっていった。天保十三年(一八四二)四月二十八日、幕府の天保改革触れをうけて松代領で以下のような内容の触書が出された。
野菜ものなど季節がいたらざるうちに売買いたすまじきむね、前々相触れ候趣もこれあるところ、近来初物(はつもの)好み候義増長いたし、ことさら料理茶屋等にては競いあい買いもとめ、高値の品調理いたし候段、不埒(ふらち)のことに候、たとえば、きゅうり、なす、いんげん、ささげの類、そのほかもやしものと唱え、雨障子をかけ、芥(あくた)に仕立て、あるいは室の内へ炭団(たどん)火を用いやしないたて、年中時節はずれに売りだし候段、奢侈(しゃし)導くの基(もとい)にて売りだし候者どもも不埒のいたりに候間、以来もやし、初物と唱え候野菜類、決して作りだし申すまじきむね、在々へも相触れ候条、そのむねを存じかたく売買いたすまじく候、(下略)(「勘定所元〆日記」)。
この触書自体は幕府の倹約令をうけて松代領に出された触書であるが、その内容は注目される。これをみると、当時野菜の初物を好む風潮が全国的にひろまり、料理茶屋などで競って高値で野菜を買いいれて料理し客に出すといった状況が広くみられたことがわかる。市域でも、近世後期の善光寺町のにぎわいにともなって初物好みといった都市的な趣向が広まったことは十分に考えられる。幕末の嘉永年間(一八四八~五四)には名産物として野菜初物も記されるようになるなど(『三峯紀聞(さんぽうきもん)』)、市域およびその周囲に広範にわたって善光寺町への出荷を目的とした蔬菜栽培がおこなわれるようになっていたのである。それはまた、たんに蔬菜を供給するだけでなく、少しでも利潤のあがる売り方を百姓たちが追求するようになったことでもあった。