文政の下肥騒動

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すでにのべたとおり商品経済の発展は、百姓が使う肥料にも変化をもたらした。善光寺町や松代城下町で排出される大小便は、善光寺町周辺の村々や川中島平の百姓にとって貴重な肥料となった。木綿や蔬菜類の栽培には下肥(しもごえ)が欠かせなかったのである。いっぽう、町方において下肥は家主の権利のもとにあり、家賃収入とともにその収入源となっていた。しかし、下肥の供給については村々での需要の高まりからしだいに高値となっていった。そして文政八年(一八二五)に善光寺町がわの下肥価格引き上げに抵抗して周辺三六ヵ村が組んで町と争うという騒動がおこった。

 文政八年十二月、善光寺周辺三六ヵ村が水内郡妻科村新田組(新田町)の茶屋太兵衛宅に集まり、善光寺町大小便の汲みとり価格の引き下げを求める会合をおこなった(小林計一郎『長野市史考』)。

 その結果、三六ヵ村は以下の価格要求を取りきめて善光寺町と交渉することになった(『県史』⑦八一三)。

    大小便取究の事

  一金一分につき 二斗五升入り  大便 六荷

   人一人につき         同  銀五匁

  但し、小児ハ四歳より七歳迄は四人にて一人前、八歳より十四歳迄は二人にて一人前出し、商売致し候者は一人につき大小便銀五匁、

  一銭百文につき         小便 三荷

   人一人につき         二百四十八文

但し、小児右断出、商売致し候者は、小便百五十文、餅米は相止め申すべく候、小便溜(だ)め買方より遣し申まじく候、

   (下略)

 しかし交渉は難航し、三六ヵ村がわは三月には「村々相談のうえ七月ころまでは善光寺へ桶留めと相成り候」(『市誌』⑬二九五)と下肥の汲み取り拒否の行動に出た。そのため松代藩が介入することとなった。ところが、三六ヵ村はそれぞれ松代・幕府・善光寺の各領にまたがっており、松代藩としても自領のみを処罰するというわけにはいかなかった。結果的に翌四月に左のような内済が成立した(『長野市史考』)。

「大小便の価格については、①肩荷で取り引きする分は今までの二割引きにする。②人ごとに取り引きしている分は今までの九掛けにする。値段については変動するので、右はこれまでの正路に取り引きしてきた値段をもとにして一割引き、つまり九掛けで計算する。餅米で決済する分は今後やめ、一人前三〇〇文の代料の九掛けで取り引きすること。ただし、餅米を望むものへは年末に町方の餅米の相場で直接交渉すること。こどもについては五歳から一三歳まで二人で一人前の料金とし、出商人は直接交渉で取り引きするようにする」。


写真6 文政8年(1825)大小便取究帳
(『内田家文書』長野市博寄託)

 この文書では、最終的にそれまでの「正路に取り引きしてきた値段」の一割引きとはっきりしない額となっている。また、こどもの分については村々の要求よりかなり不利な内容で内済が成立している。おそらく大小便の需要が供給を上まわる実態を背景とした町方の巻きかえしで、三六ヵ村の当初の要求は後退したものとならざるをえなかったのであろう。

 その後、天保五年(一八三四)、三六ヵ村のひとつ栗田村(芹田)の佐兵衛は、善光寺町藤屋に年間をとおして七八日かよって五四荷の糞(こやし)を買いとっているが、内容からみて大便であったようである。そしてこの代銀は二〇二匁となっており、一荷あたりでは三匁七分五厘にあたる(芹田 倉石左兵衛蔵)。

 この騒動でもっとも重要なことは、下肥の価格をめぐって、領主の支配関係をこえ新しい経済的結びつきのもとで、行動をともにする村落集団が形成されてきていたという点であろう。近郊農業の発展は単に農法の変化のみならず村々の結びつきを確実に変化させつつあったのである。