近世の中期以降には市域でも貨幣経済が広まってきたことはいままでみてきたとおりであるが、木綿の栽培も自給用にとどまらず農民にとって現金収入源のひとつとなった。
善光寺門前町における木綿の取り引きがいつ始まったかは不明である。延宝六年(一六七八)に善光寺横町の問屋七郎右衛門が大勧進の代官高橋庄右衛門を訴えた書状に、繰綿(くりわた)の代金をめぐる非法が記されており、少なくとも一七世紀の後半には善光寺の問屋で木綿の取り引きがおこなわれていたことがわかる。しかし、ここで取り引きされた木綿は善光寺町周辺で栽培されていたものではない可能性が大きい。これから間もない延宝九年に善光寺町でおこった繰綿代金をめぐる出入りでは、河内(かわち)国平野富田林(とんだばやし)(大阪府富田林市)の商人が預けおいた繰綿の代金未払いがその発端になっており、一七世紀当時は、木綿はまだ上方からの移入にたよっていたものと考えられる。この時期には市域では木綿栽培そのものがなかったのである。
ところが、一八世紀になると市域でも木綿の栽培が始まり、まもなく田木綿とよばれる水田での木綿栽培もおこなわれるようになった。延享元年(一七四四)の水内郡栗田村(芹田)では、田高六二一石あまりのうち田木綿として四五石ほどが記されている(栗田区共有)。
天保四年(一八三三)には、更級郡川中島平の田木綿は、岡田(篠ノ井)、今里・戸部(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)四ヵ村では田高二五〇七石余のうち木綿引き方が六七七石あまりで、約二七パーセントが木綿となっている。なかでも今里村は、田高の四〇パーセント強が木綿引きとなっていて、近世後期になると田木綿がいっそうさかんになったことがわかる(『県史』⑦三六一)。この動きは、畑においてはいっそう顕著にあらわれた。嘉永二年(一八四九)の水内郡妻科村(妻科)では、本畑高一九九石余のうち九五石が木綿御願高となっており、畑高のうち半分近くが木綿の生産にあてられたことがわかる(『県史』⑦八三三)。
そして、これより早く善光寺町でも木綿市がたつようになり、近郊の農民が生産した木綿や木綿布を木綿商人が買いとるしくみができあがっていた。近世後期に商品流通が発達するなかで木綿の取り引きも活発化し、市域での木綿栽培はいっそうさかんとなった。このような木綿栽培の拡大とあいまって、善光寺門前の市で取り引きされる木綿がしだいに善光寺木綿とよばれるようになったのである。