市域における木綿生産

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市域の近世の木綿生産量の全体像がわかる史料はないので、明治初期の状況を表7でみてみよう。明治十年(一八七七)前後の市域では七万八〇〇〇貫近くの木綿が生産されている。生産地は、千曲川・犀川・裾花川の扇状地が中心だったといえる。


表7 明治初期長野市域の木綿・白布・縞布・布・糸の生産量

 そのうち六~七割が自給用で、残りが他町村への移出となっている。移出量がはっきりと記されているのは二七ヵ村となっており、全体の四分の一ほどである。さらにそのなかで、長野への移出が明確なものは九ヵ村と市域の村々のうち一割にもみたない。しかし、もっとも多い商人への売り渡しのうち、かなりの分が長野町にもちこまれたであろうから、近世後期にも移出された木綿のうち少なからぬ量が善光寺町にもちこまれたと思われる。また、なかには水内郡吉田村(吉田)や同郡里村山村(柳原)などのように移出先が越後というものもあり、善光寺町を中心とした商圏の拡大を示す動きもみられる。そのいっぽうで、更級郡稲荷山村(更埴市)や高井郡須坂村(須坂市)などへ移出する村々もあり、善光寺町を中心としつつ周辺にいくつかの木綿の集散地が形成されたさまがうかがえる。

 木綿は秋に収穫されると綿実を除去した繰綿(くりわた)に加工される。ここまではすべて収穫した百姓が中心となっておこなうが、それより先はいくつかの流通経路をとる。まずは繰綿のまま、木綿仲買人が買いとるもの。また収穫された村内で農間稼ぎに布にまで織られたうえ、自給用のものを除いて善光寺町の市に直接もちこまれるものもあった。それらは善光寺町の十二斎市(じゅうにさいいち)のさい、新田口(しんでんぐち)(新田町)で商人に買いとられた。また、その中間製品として糸を出荷するものもある。なお、綿繰りで除去された綿実も、絞って綿実油とし、油の絞りかすは肥料とされた。このような動きから近世を通じての市域での木綿の栽培の時期的変化をみると、一八世紀に入って急速に広まり、一九世紀になると生産量はその頂点を迎えたといえる。

 安政二年(一八五五)、更級郡東福寺村(篠ノ井)では、畑高六一三石余にたいして木綿蒔(ま)きつけ高が三一〇石五斗となっていて、畑における綿作比率は五〇・六パーセントとほぼ半分を占めている(『県史』⑦八三九)。また、水田に木綿を蒔く田木綿も広くおこなわれていたようである。

 しかし、明治の初期までには新しい動きもみられた。近世後期には木綿の生産がおこなわれていたにもかかわらず明治初期には木綿の生産がおこなわれなくなってしまう村が散見されるのである。ふたたび栗田村のようすをみてみよう。

 栗田村では、安政四年(一八五七)に木綿の売り払い代金として一年でおよそ三五〇両くらいと記されている(栗田区共有)。安政年間の善光寺町での繰綿の相場は、質が上等のもので金一両あたり約四貫目であったので、かりに栗田村の繰綿が上質であったとして最低で一四〇〇貫目(約五二五〇キログラム)の生産量があったと推測される。幕末までかなりの木綿が生産されていたことがわかるが、明治初期には木綿にかわって蚕卵紙や鯉(こい)が物産としてあげられており、とくに蚕卵紙は東京・横浜などへ移出されていて、開港後の養蚕の活発化をうけて生産品目の切り替えがおこなわれたものと思われる。国内の木綿栽培は開港後、主にインドからの輸入木綿に押されて明治初期までに急速に衰退したといわれるが、栗田村の動きはそれよりも早く、まだ周辺の多くの村々で木綿栽培が継続しているなかでより積極的な対応がなされたともいえる。商品経済の活発化はまた、各村が状況に応じてさまざまな作物を積極的に生産する動きを生みだしていったのである。