市域の平地村々では近世中期から布の原料として木綿栽培が大いに栄えることとなったが、古代から信濃布として知られた麻も山中(さんちゅう)を中心に生産がつづけられた。信濃布というと、原料は、麻(大麻(たいま))と苧(からむし)が主なものであるが、市域では近世初頭までに大麻栽培が優勢となったといわれる。
また、麻布は領主にとっても、重要な収入源とされていた。慶長三年(一五九八)に上杉氏会津移封(いほう)の采配をふるった直江兼続(なおえかねつぐ)はその指示書のなかで、まだすんでいない麻年貢がある場合は急いで調べ、それができなければ余ったものはなんでもよく、余りもなければ生えているものをそのまま押さえて、始末するように命じている(『信史』⑱二四五頁)。山中麻が、収入源として重要であったことがうかがえる。
慶長八年からの松平忠輝も、山中麻の他領への移出を許可制としていた(『信史』⑳二五六頁)。元和八年(一六二二)に上田から松代に移った真田氏でも、当初はこの方式を受けつぎ、寛永十二年(一六三五)に、山中麻を留買(とめがい)として代官に買い占めさせる触れを出している。もちろん他領への無許可の移出は禁止され、口留(くちどめ)番所においても厳重に監視するよう命じている(『信史』26四九一頁)。これは百姓にとっても不便であったようで、じっさいには無許可で他領への移出もおこなわれていたのであろう。百姓たちは楽買(らくがい)(自由売買)を藩に願いでたらしい。その結果、寛永十五年には麻運上を納めることで楽買を認める方針に切りかえられた(『信史』27三五四頁)。もっとも、他領への移出はあいかわらず藩役人の許可が必要だったので、完全な自由販売というわけではなかった。
近世における市域での山中麻の生産量は不明であるが、麻石高・麻運上は知られる。山中では近世をとおして麻畑は田方・畑方と分けて水帳(みずちょう)に登録されており、麻の石高に応じて麻運上(あさうんじょう)が課されていた。
寛文十三年(一六七三)の水内郡山中麻石覚(『長野県上水内郡誌』歴史篇)によると、山中の麻石は二九三三石余であった。そのうち、市域の麻石は九一三石余であり、山中村々のなかで市域で生産される麻の量も三一パーセントとかなりの割合にのぼっている。
また、水内郡岩草村(七二会)では寛政十年(一七九八)に松代藩に納めた運上銀一〇九七匁余のうち、麻運上が七八四匁あまりを占めており、麻の生産が村にとって非常に大きな位置を占めていたこともうかがえる。
明治初期の市域での麻の生産量は、七二会村で蚊帳地(かやじ)一一〇〇匹、上ヶ屋村・入山村(芋井)で六〇〇反であった。木綿は、善光寺町が集散の中心であったのにたいし、麻は善光寺桜小路(桜枝町)などの麻問屋へも出荷されたが、新町(信州新町)がその集散の中心地となっており、その多くが稲荷山(更埴市)、のちには篠ノ井へ出荷され、直接江戸のちには東京方面その他へ運ばれたという(同前書)。
近世中期以降、一般に木綿衣料の普及につれ麻栽培は急速に衰えていくが、山中麻は特産化したことでその地位を保った。