市域への広がり

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近代の日本を支えた産業のひとつである養蚕・製糸業は、江戸時代中期以降に急速な発展をみせた。

 江戸時代初頭は、中国産の生糸(白糸)が輸入されていたため国内産はふるわず、貞享(じょうきょう)二年(一六八五)になって、いわゆる糸割符(いとわっぷ)制の再興により白糸の輸入が制限されてから国内産の需要が高まってくる。さらに正徳(しょうとく)五年(一七一五)に貿易額が制限され、国内生産に拍車がかかった。全国的には、下総(しもうさ)(千葉県・茨城県等)などの関東地方や奥州信達(しんだつ)地方(福島県)が養蚕の先進地であるが、信濃にも上田近辺をはじめとして広く養蚕が展開し、産地のひとつとなってきた。

 市域での養蚕は、上田藩川中島領の宝永三年(一七〇六)の指出帳(『大日本近世史料』)に「養蚕少々」「桑少々」などと記され、養蚕がおこなわれていたことが知られるが、大量にというようすはうかがえない。市域に本格的に広がるのは一八世紀後半からで、更級郡中沢村(篠ノ井)の玉井市郎治(いちろうじ)が養蚕先進地である奥州をまわり養蚕について学んで、明和六年(一七六九)に奥州の桑の実をもって帰り桑苗をつくり、また蚕種も奥州産を導入し養蚕を始めたといわれている。市郎治は養蚕興隆の功績により文化十年(一八一三)松代藩から賞され帯刀を許されている。またこの年、市郎治は『養蚕輯要(ようさんしゅうよう)』という養蚕技術書を著わしてもいる。

 現在、真島町に「真島のクワ」として県の天然記念物に指定されている桑がある。これは玉井市郎治の妹が更級郡真島村(更北真島町)中沢源八方へ嫁ぎ、夫婦で養蚕に精を出したといい、そのときに植えたのがこの桑だと伝えられている。高さ約八メートル、根回り三・八四メートル、樹齢はおよそ二六〇年と推定されており、当時がしのばれる古木である(写真8)。


写真8 真島の桑
(更北真島町)

 松代領内への養蚕の広まりのようすは、更級郡向八幡(むかいやわた)村(更埴市・戸倉町)の庄作が、文久二年(一八六二)に蚕種師取り締まりを申しつけられたときの書上げによってうかがうことができる(『更級埴科地方誌』③上)。それによると、天和(てんな)・元禄年中(一六八一~一七〇四)に上田近辺で始まったが、まだ未熟であったため、小県郡上塩尻村(上田市)善右衛門と庄作の祖父忠八が養蚕を国益にしようとさまざまな手段をめぐらしたが、なかなか広まらなかった。正徳四年には常陸(ひたち)国(茨城県)へ両人が出かけて技術をもち帰り、ようやく広まりだし、善右衛門・忠八の跡をそれぞれ継いだ子の善右衛門・小文治の働きで、延享・寛延(一七四四~五一)のころには収益も増大した。しかし小県郡内には広まったが、坂木(坂城町)以北へはなかなか広まらなかった。そのため小文治は同志をつのり、安永・天明年中(一七七二~八九)にようやく広まりだし、寛政年間(一七八九~一八〇一)には前記の中沢村の市郎治や松代馬喰町の仙太郎と広め方を工夫して、文化のころには領内全域に行きわたったと記されている。この記述には検討の余地もあろうが、養蚕拡大のおよその動向は示されていよう。埴科郡森村(更埴市)の中条唯七郎(ただしちろう)の『見聞集録』でも、森村で養蚕がさかんになったのは、文政十年(一八二七)の三十四、五年前つまり寛政年間のこととしている。

 これらから、市域への養蚕技術の本格的伝播(でんぱ)は一八世紀末から一九世紀はじめで、小県郡内からしだいに北上、千曲川流域をくだり、市域に入ったといえよう。