領主による養蚕の奨励

580 ~ 582

篤農家の尽力とあわせて、幕藩領主がわでは国産奨励策の一環として桑の植えつけを推進した。幕府領では明和元年(一七六四)に、荒れ地開発、樹木の育成、麻・綿作奨励とならんで「格別百姓助成」になるとして養蚕の奨励が説かれている(『県史』⑧三二四)。

 松代藩では、文化五年(一八〇八)に、川辺の村、砂地の場所はもちろん、田畑・林の畔(あぜ)や、家のまわりに桑を植えつければ、村方の助成にもなるとして奨励し、文化八年には更級郡小網新田(おあみしんでん)村(坂城町)の吾妻(あがつま)銀右衛門、埴科郡鼠宿(ねずみじゅく)村(同)伝八郎の二人を「桑苗養成御世話」とし桑苗の育成を命じた。また銀右衛門は、関屋御林(松代町豊栄)を桑園とすることも命じられ、二万坪の桑園を開いた(次項参照)。

 また、文化十一年には、桑苗植えつけ蚕飼助成(こがいじょせい)触れ(『市誌』⑬二九〇)を出している。そこでは、

一(ひとつ)現在「毛苗(けなえ)」をもっているものの名前と数を知りたい。少なくともかまわないのできちんと報告せよ。そのものに褒美をくだす。

一苗木を分けあたえるので村方で本数を願いでよ。

一極上の蚕種(こだね)を用意してあるので、遠慮なく受けとること。これも村方で何枚と調べて申しでよ。

と、村々に触れている。普及を促進するため、報奨制度を設けるとともに苗の配布をおこない、国の産物として根づかせたいとの積極的な姿勢をみることができよう。「毛苗」とは、桑の実を天日に干して翌年春彼岸過ぎに蒔(ま)き、暑さや日照り、冬の寒さなどにたいする手入れをきちんとおこない、その年のうちに八、九寸から二尺あまりに育った苗をいう。この苗を翌年の春彼岸ころ植えかえる。蚕種は蚕の卵を紙に産みつけさせたもので、そのため一枚、二枚と数える。蚕種の良し悪しが繭の質にも影響するので、はじめは自給していたが、しだいに信用のおける産地の良質な種を導入するようになった。

 松代藩はまた、文化十三年に、毛苗、蚕種のほかに、『桑苗之伝書』と『蚕飼方(こがいかた)伝書』という養蚕書もあわせて下付し、十一年同様、毛苗を育てたものに褒美をあたえている。藩役所とすれば、意識の高い百姓を賞することで養蚕の拡大定着を期待したのであろう。なお、養蚕書の下付は、松代藩士堀内与一右衛門の日記に「文化八年中沢村市郎治を手先にし、(中略)『桑植方(くわうえかた)伝書』を作り板形(はんぎょう)にいたし、数百冊山里村々へ引懸追懸相渡(ひっかけおいかけあいわた)し」とあることからも知られ(『信濃蚕糸業史』)、各種の養蚕関係の書が村々に渡っていた。『信濃蚕糸業史』では「未(いま)だ該書(がいしょ)を見る能(あた)わず」としているが、南俣(みなみまた)区(芹田稲葉)には、堀内朝宜という人物が文化八年に著わした『桑殖方(くわふやしかた)』という版本が残っており、この本が『桑植方伝書』であろうか(写真9)。そこには桑苗の育成方法、肥料のあたえ方などに関する詳細な情報が記されている。これらの技術書は養蚕技術の定着進歩に大きな力となったことであろう。


写真9 『桑殖方』文化8年(1811)7月
(南俣区有)

 いっぽう、更級郡中山新田村(篠ノ井有旅(うたび))では、「文化八、九年と桑苗を頂戴し植えつけたものの薄地石原で、そのうえたいへんな高地ゆえ、八十八夜のあとも霜がおり、虫食いになるなど用立ちかねるので、文化十年にも願書を差し上げ免除してもらったとおり、今年(文化十二年)も同様にお願いしたい」、と勘定吟味役所へ願いでている(有旅 宮下光良蔵)。桑苗は希望の村に下付されるという形をとるが、村々になかば強制的に配布された。そのため桑の栽培に向かないところでは免除を願いでることとなった。明治初年の『町村誌』北信篇には、中山新田村の属する有旅村に養蚕関係の記述はなく、やはり養蚕には向かなかったようである。

 上田領の小県郡村々では宝永三年(一七〇六)指出帳の桑の項に、「百姓勝手に植え申し候」などと記載されており、早くから村々で自発的におこなわれていたようすがうかがえる。また九〇パーセント以上の村で桑栽培の記述があり、養蚕が普及していたことがわかる。そのため養蚕を奨励はするものの、松代藩のように桑苗を配布することはしていない。