本田畑への植えつけ

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こうして一九世紀初頭に藩のてこ入れや、各村での努力の結果、急速に桑の栽培は増加していく。本田畑に桑を植えることはがんらい許されてはいなかったが、しだいに本田畑に植えるものが出てきたので、行き過ぎをおさえることが必要になった。

 上田藩では本田畑への桑の植えこみが増えてきたため、文政十年(一八二七)に領内から書上げを提出させた。川中島領でのようすを「中氷鉋村等桑畑書上帳」(『市誌』⑬二九八)によってみると、更級郡中氷鉋村(更北稲里町)では最小二歩から最大二〇八歩まで計七〇筆、五反九畝九歩の本畑に桑が植えこまれていた。そして一畝につき一升の割合で冥加(みょうが)麦を納めていた。岡田村(篠ノ井)では一町三反二畝一七歩、今里村(川中島町)では四反四畝六歩、戸部村(川中島町)では一町九反三畝七歩、四ヵ村で合計四町三反二畝九歩の桑畑があった。高請け地であってほんらい認められない本畑に植えた分を、冥加麦を納めさせることで、追認したものといえよう。なお、稲荷山村(更埴市)には本畑に桑はなく、切り起こしの畑だけであると記されている。

 松代藩では、文政十二年二月、桑苗植えつけや養蚕に関する規制の触れを出した(『市誌』⑬二九九)。そこでは、「桑を植え蚕を飼うことを奨励したのは、作徳が薄く、夫食(ふじき)の貯えも少なく生活が危ういからで、五穀の実らないところへ桑を植え、耕作の片手間に蚕を飼えば、少々金銀も手に入り夫食の貯えもでき、凶年のしのぎになるとの趣旨であった。それなのにこのごろは、桑、養蚕が利得のあることを知り、高請けの地へ桑を植え耕作をおろそかにして蚕を飼うなど、もともとの趣旨を忘れているものがいる。今後は稲の仕付けに遅れないよう心がけよ」、と諭している。また、年中骨折りである耕作より、少しの日限で金銀が手に入るため、奢(おご)りのきざしが出ていることなども指摘している。現金収入を得ようと、本田畑に桑の栽培が急増していることがわかるとともに、養蚕により、以前より現金を容易に入手でき、生活が変化してきているようすがみてとれる。

 また松代藩では、前々からつづいて天保六年(一八三五)に、本・新田とも穀物のできるところへ桑を植えているものは掘りとるよう命じた。高請けの地であっても家ぎわ、日陰、水のつきやすい場所など桑を植えたほうがよいと判断されるところは桑畑となっていたためであった。この触れに関しては、藩当局内にも賛否両論があった。勘定吟味役の袮津左盛は、元手を借りいれようやく利潤が出るころに掘りとらせれば潰れとなるものも出る、しかも松代領は一国一円の領地でなく、他領と入りまじっているので、隣の他領の田畑は制限なく、松代領だけ制限があれば、譲渡のさい安くなり「領主御名題に拘(かか)わる」として、本田畑でも取り実の薄いところはその土地に応じて桑を植えさせ、そのかわりに囲穀(かこいこく)をさせよとの意見をもっていた。しかし郡(こおり)奉行らは、すべての領地が入りまじっているわけでなく、下々の民は「大道(たいどう)」に暗く、目先の利にのみ心を奪われるもので勝手にさせられない、新田のうちでどうしても差し支えのあるものは申しださせればよいとした。けっきょく、近年桑の葉も売れ残るようになって、新たに植えこむものもなく、触れがなくとも掘りとっているものがあるので、この触れは出したまま、掘りとりの調査はせずようすをみることで落着した(「勘定所元〆日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。つまり、あえてきびしく実施せず、百姓の才覚に任せることにしたのである。