関屋の御林開発計画

584 ~ 586

松代藩では、桑の植えつけを奨励する一環として、苗木の育成に乗りだし、前記のように文化八年(一八一一)小網新田村吾妻銀右衛門と鼠宿村伝八郎両人に桑苗養育御世話を命じた。

 当初、伝八郎の地所で育苗しようとしたが、その地が水害のおそれがあり、また遠方ということもあり、小網新田内の銀右衛門所持地一五〇〇坪に変更となった。銀右衛門は、文化九年二月に二万本、同十年に二万五〇〇〇本、伝八郎は文化十年に二万五〇〇〇本を上納することとなった。ここで発揮された銀右衛門の才覚が、このあとの桑園計画へとつながった。なお、育成された苗は銀右衛門が上州から導入した広葉早生(ひろばわせ)という品種で、山中あたりに適しているとみられていた。

 松代藩ではさらに、苗の育成をはかるだけでなく新規に土地を開き桑の増産をはかるため、文化十年、関屋御林(松代豊栄)を開墾して桑園とすることとした。その担当として、桑苗生産で実績のある銀右衛門が命じられた。銀右衛門は、いったんは辞退したものの、藩の強い要請により、実地見分をしてからとしながらも引きうけることとなった。見分した銀右衛門によると、なかなか桑の生産には適しているが、深山幽谷のため寒中に根が凍るのではとの心配があった。しかし、いっぽうで広葉早生ならこの土地にあい、最上の桑園になると確信してもいる。その計画は、つぎのとおりである。

 ①御林萱野場(かやのば)二万歩を開発する。

 ②櫨(はぜ)、竹、杉の御林も造成する。

 ③一〇年後には経費を差しひいて三八五両余の収益となる。

 ④冥加金として、一六六両余、経費を引いて一〇五両を年々上納する。

桑の仕立ては、十分試してあるので仕損じはないと自信を示している。そのうえで、文化十年八月に『御林桑植付御入料御出方凡調覚帳(おはやしくわうえつけごにゅうりょうおんでかたおよそしらべおぼえちょう)』(『吾妻銀右衛門文書』長野市博蔵)を提出し、詳細に入料(経費)と出方(収益)の見積もりをした。


写真10 吾妻銀右衛門頌徳碑
(松代町豊栄)

 これによると、文化十年から翌十一年の春までの分として、草藪(やぶ)の刈り払い、くれ打ち、溝掘り、植えつけなどの人足計五五〇〇人、桑苗八万本、小屋とほかの諸道具をあわせて二四〇両一分銀一〇匁、その後一年間分の養い草代・人夫代として六一両二分銀一〇匁、これらをまとめて一〇年間分で八五七両銀五匁の経費を見こんでいた。また、収益の見こみは、文化十二年は桑一五〇〇束(二〇両)、十三年には六六〇〇束(一一〇両)、十四年以降七年間は一万束(一六六両)で、しめて一二九六両二分銀一〇匁で、経費を差しひき、四三九両二分銀五匁が一〇年後までの収益金として見こまれていた。そのほか、冥加金として、一〇五両が上納される見通しであった。当初は開発経費がかかるものの、三、四年で、桑が安定供給できるようになると、二〇〇両をこえる利益となる予定であった。