幕府の酒造統制

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江戸時代の酒造は、著名な全国的産地が成立するだけでなく、村々での酒造もさかんにおこなわれていた。この酒造は、経済の基幹物資である米を加工してつくられるため、米価安定が財政にとって不可欠な幕藩領主のきびしい統制のもとに置かれた。そのため、酒造をおこなうには、「酒造株」を必要とし、それを基準として酒造米高が統制されていくことが原則であった。

 寛永十九年(一六四二)に幕府は、町以外の在々においての酒造を禁じているが、しだいに村方での禁止文言(もんごん)はみられなくなり、「株」をもうけることで統制をはかるようになる。幕府による酒造株の設定は、万治(まんじ)三年(一六六〇)八月に、明暦(めいれき)三年(一六五七)の酒造米高を改め、その半分に制限したときからである。ついで、寛文(かんぶん)六年(一六六六)にも「累年造り来り候員数」の調査をし、やはり半分に制限している。善光寺町でも寛文七年に三一二〇石二斗の酒造米高が、翌八年にはその半分に制限されている(『大勧進文書』大勧進蔵)。

 元禄十年(一六九七)には、「酒商売人多く、下々猥(しもじもみだり)に酒を呑み、不届き」とのことで、その消費を抑制するため酒の値段が五割上昇するよう運上が課された(『県史』⑦九二四)。それをうけ、各村々では請書(うけしょ)を差しだした。水内郡瀬脇(せわき)村(七二会)では村内に酒造人はいないものの、今後、酒造人・揚(あげ)酒屋(小売酒屋)などが出てきた場合はかならず届けでるむねを記して請書を提出している(『県史』⑦九二五)。また、善光寺町では、諸領入りまじり、酒の売れゆきが悪いことを理由に、一二軒の酒屋が免税を願っている(『信州の酒の歴史』)。五割の運上の衝撃が大きかったことがわかる。この運上は宝暦六年(一七五六)までつづいた。

 元禄十五年には、元禄十、十一両年の酒造米高を調べ、以後、元禄十年の石高が基準とされることになった。そのため、以後の酒造高は「元禄十丑(うし)年酒造米の五分の一」というように指示された。この元禄十年の基準は、天明八年(一七八八)に改定されるまで効力をもっていた。そののち、米価を安定させるために酒造米高が利用された。享保(きょうほう)期(一七一六~三六)にはしだいに酒造が自由化され、宝暦四年には、元禄十年の石高まで勝手次第、休み酒屋も届けのうえ勝手次第とされ、幕府は積極政策へ転換し、米価安に対応した。そのため、現実の酒造米高は株高をこえ大きくなっていった。

 しかし、天明期(一七八一~八九)になると、飢饉(ききん)により米価が高騰したため、半減さらには三分の一造りに減らされ、減石(げんこく)の時代となった。天明八年には、現在までの酒造米高と株高の調査がなされた。すると、元禄の株高より天明六年段階の酒造米高三分の一のほうが格段に増加していることが判明したため、以後、天明六年の石高が基準の石高とされるようになった。

 文化期(一八〇四~一八)に入ると、ふたたび酒造積極策が打ちだされる。文化三年(一八〇六)には、米価が安価で「世上一同難儀」として、酒造人および休み株のもの、さらには今までおこなっていなかったものまですべて勝手次第とされた。そのため、無株のものの酒造が増加した。この勝手造りも文政九年(一八二六)に、文化三年以降始めた休み株のもの、無株のものの酒造が止められた。このとき、松代領内の酒造人三四人が規定をつくって法令の順守を確認するとともに、無株のものが酒造していたら訴えでることを取りきめている(『県史』⑦九六一)。つぎに減石とされるのは文政末、そして天保の飢饉のころである。天保五年(一八三四)には、前年までの造り高ならびに減石高の改めがあり、以後天保四年の石高が基準とされた。

 減石の場合、請書を提出し、空き樽(だる)には封印がなされた。天保八年の善光寺町茂右衛門の例では、総桶(おけ)数が五尺桶二八本、四尺桶四本、三尺七寸桶一〇本あり、そのうち、五尺桶二一本、三尺七寸桶二本が封印され、残った桶に三五石分を造りこんでいる。そのほか、五尺桶三本、三尺七寸桶四本に越後の酒が買いおいてあったので、空きしだい、届けでて封印をうけるとしている(『県史』⑦一二九六)。この年は、三分の一造りが布達されたが、地域によっては「皆差止め」も可とされた。そのため塩崎知行所の村々へ「皆差止め」の可否が尋ねられた。中氷鉋村からの返答書(中氷鉋 清水忠行蔵)によると、年貢皆金納(かいきんのう)のため、酒造を止められると、米が売りさばけず年貢上納金にも差しつかえる、と酒造の継続を申したてている。年貢の金納化がすすむにつれ、酒造は年貢金調達の重要な一翼をになうようになっていた。

 酒造は米の豊凶、米価の高低により、ときどきに制限と勝手造りを繰りかえし、しだいに基準の石高をこえるようになり、その基準を改定しつつ統制が加えられていった。